アナザースカイ – ラモス瑠偉 @ リオデジャネイロ、ブラジル


ラモス瑠偉

「アナザースカイ」という番組がある。タレントやアスリートなどが自分にとっての思い出の場所への旅行。時に辛く、時に嬉しく、昔過ごしたあの場所へと、あの時の昔の自分に出会うために、そしてそこから再び何かに出会うために・・・

観光名所を巡るでもなく、昔の自分の過去の居場所へタイムスリップ。誰でも「アナザースカイ」を持っている。生まれ故郷を離れ、友達と過ごした街を離れ、新しい希望に向かって旅だった場所。いや、希望なんてなかったかもしれない。とにかく苦しい日々を過ごしたあの街へ。

「アナザースカイ」、地球のどこにいたって見上げる空は・・・感じることができる太陽の暖かさや観ることができる夜空に散らばっている星たちの輝きはどこにいたって同じなんだけどなぁ・・・Do you have your own another sky?

アナザースカイ – ラモス瑠偉 @ リオデジャネイロ、ブラジル

夜のゲストはリオデジャネイロで生まれ育った男、人は彼をサッカーの伝道師と呼んだ。リオデジャネイロでは仲間とビーチで過ごす。隣にいるのは実の兄、ビンバさん。兄弟仲良く観戦しているのはフッチバレーと呼ばれるビーチスポーツ。フッチバレーとは、ビーチサッカーとビーチバレーを合わせたもの。

驚くべきは彼らの平均年齢、なんと50歳。それを全く感じさせないキレのある動き。元ブラジルサッカー代表、レナト・ガウショ。おっさん連中、普通にサッカー上手。これがサッカー大国、ブラジルの日常。日本じゃ、有り得ない光景ですか?

リオデジャネイロの人々はビーチを愛する。特別な場所ではなく、暇さえあれば仲間や家族と過ごす当たり前の場所。ビーチから生まれる文化。その一つがビーチサッカー。FIFA世界ランキング1位、過去W杯16回中13回優勝。

“全然レベルが洒落にならない、日本人の小学生、中学生連れてきたら無理だよ、ボコボコにされるよ(ラモス)”。ラモスは4年前からビーチサッカー日本代表の監督を勤めている。2年に1度W杯出場を監督就任4年で3回連続で達成。

勝利の哲学

んな名将ラモスが考える勝利への絶対条件、勝利の哲学。“強いハート持ってないと絶対ダメ、代表愛して、愛国心持って、言い訳する選手は興味ない、だったら来るなって言いたい、来るなよ(ラモス)”。言い訳するものはピッチから去れ!

“責任取らないし、逃げ道探すし、人のせいにするな、言い訳ばっかりだよ(ラモス)”。この時点でラモス、顔真っ赤。怒りで頭に血が上った様子。

今年もカーニバルが始まる。ビールを飲む、ラモス、美味しそう。リオデジャネイロカーニバル、毎年2月頃に4日間開催される世界最大級のお祭り。撮影を行った日は開催初日であった。“まず最初、お財布は持って歩かないし必ず(ラモス)”。参加人数は4日間で述べ480十万人。

一般的に知られるカーニバル、特設の大通りをサンバで踊るもの、このメイン会場だけでなく、カーニバル期間中、リオの街中にサンバを演奏する山車が出る。リオデジャネイロが1年で最も待ち望む日。いつか参加してみたいです(笑)。

生まれ故郷メンデス

オの中心地から車で一時間半、生まれ故郷メンデス。300人ほどが暮らす小さな街。“ボールがない生活は考えられなかったですよね、靴下の中に新聞とかいろんなもの入れたりしてボール作ってたんですよ(ラモス)”。ボールの代わりに靴下に物を詰め込み、自分は裸足、舗装される前の砂利の上でサッカー人生が始まった。

生家の前にあるサッカークラブに入団。仲間が持っていてくれた。みんなで集合写真。親戚の一人がラモスのブラジルでの記事を大切に保管してくれていた。ラモス瑠偉の日本での活躍は当時ブラジルでも伝わっていた。

1977年、20歳で来日、読売サッカークラブ入団、年間MVPや得点王など現在も破られていない、個人タイトル5冠を達成、1989年32歳の時に帰化し、36歳の時、Jリーグ開幕、リーグ初優勝破られて日本代表入りを果たす。

ラモス瑠偉の原点、人生で初めてのピッチ。このピッチで教わったこと。“小学校3年生ぐらいまでかな、ある程度子供扱いされたの、もう中学校で自分のミスで点を取られたら大変なもんですよ、ものすごい責任感をもたせるんですね(ラモス)”。

人として立派でありなさい、ラモスが9歳のときに亡くした父からの言葉。父を失い残された家族を養うためプロになる決意をした。母を楽させたい、朝から夜まで仕事、5人兄弟、18歳の時ブラジルのプロ選手となった。サッカー大国ブラジルでプロになるには人並みはずれた努力が必要、だがとてつもない高いハードルをラモスは見事乗り越えてみせた。

両親が眠る場所へ

ず立ち寄る場所がある、花束を携え両親が眠る場所へ、到着と同時に突然の雨。ブラジルプロリーグに入り、2年後の20歳、周囲の反対を押し切り日本へ渡った。“これからお前の時代が来るのに何で知らない国に行くんだよ、プロじゃない国に行くんだよって。正直な話、情けないけど、お金目当てだったんです、お母さん、楽にしたくてしょうがなかったんです(ラモス)”。

母を助けたいから日本へ。“ブラジルの給料が3、4万円で、日本は手取りで16万2千円ぐらい、18万円(ラモス)”。心ならず、日本行きを決めたのも、母のためだった。プロという肩書きを手に入れたが、給料は満足できるものではなかった、だからラモスは遥か地球の裏側にある日本のアマチュアリーグからのオファーに応えたのだ。

“母さんがそこに来てくれたんじゃないかなぁと思います、この雨も、ここに長くいないで帰りなさいって、心ものすごい広い人、海のように広かった(ラモス)”。

バイク事故

を守ると誓いはしたが言葉も文化も違う国で戦うのは、簡単じゃなかった、絶対の覚悟を持って日本に来た。しかし彼の覚悟は来日4年目で起こしたバイク事故でも揺らぐことはなかった。1981年、バイク事故を起こし選手生命が危ぶまれた。夜中に病院へ運ばれた時に二度とサッカーできないと言われた。

金曜日に複雑骨折をして、月曜日まで誰にも触らせなかった、ちゃんと手術できる医者に会うまで。“まだ僕の頭の中に親孝行してないから、神様、もう一回、もう一回、チャンスください、バカなことしない、その痛みもあなたに捧げるけど、ただサッカーやらせてください(ラモス)”。神に祈る他無かった。二度とサッカー出来ないって言う医者には自分の脚を触らせなかったそうです。

人生の節目に必ず訪れる地

い頃から敬虔なクリスチャンとして祈りを捧げてきた、そんなラモスが人生の節目に必ず訪れる場所、ブラジル最大の教会、アパレシーダ。祈るのはこれまでのこと、プロになれたこと、そして日本で活躍できたこと、聖母は常にラモスの人生を見守ってくれた、アパレシーダの聖母、ブラジルの全クリスチャンが彼女の元へ。

ラモスは来日してから暫くの間、ある想いを捨てきれずにいた。“やっぱりブラジルでプロとして、自分の力どこまで通用するんだろうなぁって、1986年の時に、素晴らしい監督さんに出会って、いきなり僕のところに来て、俺帰るから一緒に帰ろうよ、十分通用するよって言ってくれたんです、すごい嬉しかったんです、うちの奥さんに話したら、私あなたの妻だから、どこ行っても着いて行きますって(ラモス)”。

母へ仕送りできる額を保証してくれる、母国でプレーできる、夢のようなオファーがあったことを告げると、妻は賛成してくれた、しかし・・・

最愛の妻、初音さん

1984年、4年の交際を経て結婚、自分の夢を快諾してくれた。“うちの奥さんは一人娘です、そうすると歳取ると誰が両親のめんどを見るのかなぁ。自分の夢を捨てるのか、ブラジルでプロになるのか。奥さんを両親の側にいさせてあげたい、だから夢を捨てた。だからそれは後悔していません(ラモス)”。

家族と離れる辛さを味わうのは自分だけで充分、貧しい時も自暴自棄になったときも支えてくれた妻のため帰化を決意、Jリーグ発足の実に6年前、自ら退路をたった。ラモスは自分のために生きたことがない、すべてを捧げた最愛の妻は一昨年他界した。

1989年、日本に帰化、人のために生きてきた、妻・初音さん、2011年7月に他界。“今でも泣く日があるね、恋しくて、寂しさ大きいね、一緒にここに来て、遊んでくれたし、今でも恋しい、会いたい、辛いって抱きしめて、まぁありがとなぁって、ごめんねって、いろいろ大変だったけど、それを嫌な顔せずに付き合ってくれたなぁっと、すごいなぁと、一緒にいてくれてありがとう(ラモス)”。

ラモス瑠偉、彼を突き動かしてきたのは、家族愛、家族以上に大切なものなんてありはしない、何を犠牲にしても、どんなことがあっても守って見せる、56年、そうして生きてきた、これからも何ら変わりはしない、アパレシーダの聖母と共に、あの人が見守ってくれるから。今年もリオは暑かった・・・

日本サッカーへの想い

っと強くなって欲しい、いつかW杯、優勝して欲しい。言わずにはいられない、日本に強くなってほしいから。“昔から日本代表は弱いって言われてきたけど、そう言われるのが自分が日本人になってから嫌だった、辛口辛口って言うんだけど、俺プロとしては許さない、もっと皆が逞しくなって、もといつか優勝目指せばいいじゃん(ラモス)”。

ラモスにとって、ブラジル、リオデジャネイロはどんなところでしょうか? “一年間の疲れとか、行って田舎帰ったら川とか緑とか、また一年頑張ろうなぁって、そういうエネルギーをもらえるところじゃないかなぁっと(ラモス)”。

見終わった感想

ヤー、感動してしまいました。実は私、小学校の時、東京都町田市でサッカーをしておりまして、何かのサッカー教室か特別なイベントの日に読売クラブからラモス瑠偉氏他、が少年サッカー場に来てくれたんです。微かに覚えています、そのときの様子を!

プロとしてやっていたサッカーなのに、プロリーグもない遥か地球の裏側の日本まで来るとは相当な覚悟がないと出来ないはず。お母様を助けるためとはいえ、凄い決断だったはずです。そのような覚悟があったからこそ、帰化して日本人となり、日本代表で戦う姿勢が、あの闘士を前面に押し出してプレーする姿なんでしょう。

日本のサッカー、ここまでの発展に貢献してくれた外国人選手、とてつもなくありがたい存在です。特にブラジル代表に名を連ねる選手がまだ発足して間もないJリーグに来てくれたこと、私は一サッカープレーヤーとして、一サッカーを愛する一人として、本当に感謝の気持ちで一杯です。ジーコもラモスもまだアマチュアリーグの時に来日してましたから。

奥様のこと、知りませんでした。ラモスのお母様、アパレシーダの聖母、奥様、初音さん。それぞれ凄い偉大な愛に包まれているラモス、とっても格好良かったです。人の魅力、やっぱりその人の生き様かぁ・・・ラモス、有難う!!

旧友とラモス瑠偉

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