アナザースカイ – 安藤忠雄 @ イタリア


安藤忠雄

「アナザースカイ」という番組がある。タレントやアスリートなどが自分にとっての思い出の場所への旅行。時に辛く、時に嬉しく、昔過ごしたあの場所へと、あの時の昔の自分に出会うために、そしてそこから再び何かに出会うために・・・

観光名所を巡るでもなく、昔の自分の過去の居場所へタイムスリップ。誰でも「アナザースカイ」を持っている。生まれ故郷を離れ、友達と過ごした街を離れ、新しい希望に向かって旅だった場所。いや、希望なんてなかったかもしれない。とにかく苦しい日々を過ごしたあの街へ。

「アナザースカイ」、地球のどこにいたって見上げる空は・・・感じることができる太陽の暖かさや観ることができる夜空に散らばっている星たちの輝きはどこにいたって同じなんだけどなぁ・・・Do you have your own another sky?

アナザースカイ – 安藤忠雄 @ イタリア

は言った金はなんの栄養にもならない、元ボクサー、リングネームはグレート安藤。独学でこの世界へ飛び込むと、瞬く間にその名を轟かせ、あまたの賞に輝いた、世界中で賞賛される建築家、人読んで戦う建築家、安藤忠雄71歳。

前日夜まで仕事をこなし、パリ経由で15時間かけてイタリアミラノへ朝9時頃着いて、シャワーを浴びたら即仕事、今回のヨーロッパ出張もスケジュールがぎっしり詰まっている。

世界的建築家の欧州出張記

(1)ダウンジャケット デュベティカ、安藤忠雄設計、2011年完成、視察のために訪れる

(2)高級腕時計 パネライ、オーナーから打診があり挨拶のために訪れる

(3)高級ガラス細工 ヴェニーニ、安藤忠雄デザインの新作の打ち合わせのために訪れる

まずはかつて手がけたデュベティカのショップへ、建物の計面変化をチェック、その足で高級腕時計ブランド、パネライを訪れ、新たなオファーへの挨拶、ヴェネチアングラスの名門ヴェニーニでは最新作の打ち合わせ。

安藤忠雄はイタリアで数多くの仕事を手掛ける。海外でも分刻み、秒刻み、多くの物件を手掛けるイタリアではのんびりしている時間などない。

“私のクライアントやこれグッチね、これもそうやボッテガ・ヴェネタも(安藤)”。“格好悪くてもいいからがむしゃらに働いてやってみないと、100歳までいくんやで(安藤)”。そう言うと安藤は通常2時間かかる食事を15分ですませ、次へと向かった。

夢を持つものに捧ぐ

界で最も有名な家具の見本市 ミラノサローネ、そこに安藤忠雄は招かれていた。“家具じゃないですか、デザインもするんですか?(今田)”。“頼まれたらね(安藤)”。

カール・ハンセン&サン、デンマーク発祥、105年の歴史を持つ、北欧家具の代表的ブランド。そこから依頼され安藤がデザインしたのがこのドリームチェア、その完成発表イベントに出席した。ファンとの交流が終わると今度は取材対応、入れ替わり立ち代り各誌がインタビュー。移動は常に早足か小走り、建築家安藤忠雄71歳、ヨーロッパで絶大な支持を得る。

イタリアへ初めて訪れたのは48年前、1965年、単身ヨーロッパを巡った。“1965年に初めて来た時に、ベニス行って、ミラノ見て、面白い建築見たり(安藤)”。地球を歩きたい、一般人の海外渡航が許可された翌年に旅に出た、1ドル360円、貧乏旅行であった。独学で建築の道を志した男の教科書は世界中でその目に焼き付けた名建築だった。

新しものを見たいが為に。“ひたすら歩いてましたよ、もう歩くばっかり、一日10時間ぐらい歩いてましたよ(安藤)”。船でナホトカに渡りシベリア鉄道でヨーロッパへ、アフリカ希望岬を経由しアジア各地を巡りその後、アメリカ横断を果たす。“金が無い、知的レベルが低い、英語ができない、体力だけはあった、体力あったら何とかなるんですよ(安藤)”。

世界遺産の街、マントバ

ラノでの仕事を終えるとそのまま車で3時間、歴史地区マントバへ。この日街の朝刊を賑わせた記事は、この街で安藤忠雄が講演会を開く。講演会は築48年の教会で行われた、立ち見が出るほどの満員。別の会場で生中継、48年前貧乏旅をした男は世界を代表する建築家になった。

翌朝、様々な歴史的建築を見学。“いつも講演会行く時には、見たいものがある所と、全部ボランティアですからね講演会は、見返りは建物を見せてくれると(安藤)”。安藤忠雄、彼は71歳となった今尚学びに飢えている。“何か自分で若い時に興味のあるものを探さないかん、自分の面白いものを探して行く間は、自分の心が燃えとるから(安藤)”。

マントバで世界遺産を目の当たりにした安藤、今度はベネチアへ。ベネチアで5件目となる物件を建築中であった、依頼から11年、間もなく完成。テアトリーノ、小劇場の意味、映画や企業の会議など多目的スペースとして運用されていく。音を形にした世界、劇場の椅子は安藤忠雄の特注品。

建築人生50年駆け抜けて来た

ネチアの名所、サン・マルコ広場、景観監督局局長、レナータ・コデッロ。ベネチアでも興味はやっぱり歴史的建造物。そして安藤はイタリアにおける建築の許認可を司る最高責任者の案内でドゥカーレ宮殿へと足を運んだ。ベネチア伝統の建築スタイルを見せてくれるという、ここで我々は安藤忠雄という男がこの国で如何に特別な存在か知ることとなった。

ここは一般の写真でさえ撮影禁止だが安藤忠雄さんであればと許可が下りた。“特別な場所から眺めを楽しんでおきましょう(コデッロ)”、“この窓は誰でも開けられるんですか(スタッフ)”? “ローマ法王しか出たことがない場所です・・・もしかしたら(コデッロ)”。

安藤忠雄がどういう男かお分かりいただけただろう。“ホンマ小さいねぇ、ナポレオンが座っていた椅子(実物)(安藤)”。600年、変わることのない街、ベネチア、48年前の安藤忠雄も当然足を運んだ。ベネチアを代表する建築家、パッラーディオの教会が見たかった、憧れの建築の目の前に自分の建築が・・・

世界最古の税関、プンタ・デラ・ドガーナ

ンタ・デラ・ドガーナ、世界最古の税関だった建物、その復旧を任されたのを機に、安藤の名は一躍イタリア全土へと知れ渡った・・・しかし作業は困難を極めた。“ここに建築造るというのは難しいですよ、こういうの出来ますか?いうたら、いやそれは水の中ではできない、もうできないことばっかりですよ(安藤)”。

海上都市の困難、全ての運搬は船、コンクリート車もベネチアまでの移動だけで4時間、生の状態を保持し続ける、大潮の際に、気象条件が揃うと、海面が以上上昇を起こす、アックア・アルタが起こる街、歴史的建造物の困難、外観を変えることは許されない、住民からの反対、外国人という困難。

“イタリアに仕事ないのに、なんで日本人なんだと、でっあちこちの街中に、ただおあんどう反対というポスター、いっぱい貼ってましたよ、反対されても前へ行くんだと、気持ちが国際語なんですよ(安藤)”。

世界共通言語、気持ち、すべての困難に安藤は気持ちでぶつかった、そうするしかなかった。“まぁ全力でやれば必ず光が見えてきますよ、日本人の誇りかけて、日本人として頑張れるところは頑張ると思わないと(安藤)”。誇りを賭けた2年間、209年、完成、プンタ・デラ・ドガーナ。現在、プンタ・デラ・ドガーナ内へ。

朽ちたレンガの代わりに同時代である15世紀のレンガを取り寄せ壁を組み直した。梁も当時の木材を使用、床下には海面上昇時に耐えられる貯水タンクが備わっている。歴史的建造物の修復と保存、それだけではない。

安藤忠雄の挑戦

藤はまず朽ちたレンガと同時代のレンガを取り寄せ、新たに壁を組み直した、梁もすべて同時代の木材を使用、浸水への対策として、床下には、貯水タンクを備えた、こうして安藤は、あらゆる困難を乗り越え歴史的建造物の修復と保存を両立して見せたのだった。

しかしそれで終わりではなかった、気持ちという共通言語を伝えるため、ある物を作った、それは突如として姿を表す、無機質なコンクリートの箱、その中で、過去の素材レンガと、現代の素材コンクリートが、時代を超え、存在し続ける太陽の光によって調和を果たしている。

安藤忠雄は過去と現在を結びつけその先に繋がる未来を見せたかったのかもしれない、そして安藤自身も48年前と今とが線で結ばれた。若き日に憧れた建築家に恥じぬ作品となった。

3日目、ベネチアから電車で移動、ボローニャへ現場視察。“でも人生早かったなぁ、スピードあったなぁ、知らんうちにすぎていくね(安藤)”。自らの目で確かめ構想を練る、視察の感想を聞こうとしたその時だった、突然部屋に入ると、何やら考え始めた、安藤建築の何かが生まれた瞬間だった。突然見取り図を見て机に向かった、没頭し始める、こうして安藤建築は生まれるのかもしれない。

翌日ドイツ、フランクフルト、バード・クロイツナッハ。到着すると地元テレビ局が取材、市をあげて安藤忠雄を歓迎した。この物件とは? ストーンスカルプチャーミュージアム。石で本を彫刻する芸術家クーバッハ夫妻が1996年に依頼したことから始まった。

“頼まれてから設計をしたんですよ、6億円ぐらいかかると、いやー実は言いにくいんだけど、お金は無いんだと(安藤)”。予算が少ない、話し合いは5年に及んだ。“クーバッハさんが亡くなってしまったんですよ、もうこれで終わりかなと、思っておりましたところ、どうしても造りたい、それで考えました、コンクリートは専門家が造るというのは、上は村の人たちが造ると(安藤)”。

気持ちで人を動かす男、安藤忠雄が気持ちで動かされた。村人たちが土日返上、3年の歳月を費やし、美術館は完成した。安藤は着工を前に、設計を全て見直していた、素人でも建てられるように。

“まぁ建築というものはどうしても図面書いてもいろいろな人たちで同時にやるものですから、私もその中のチームの中の一人、でやってきましたけど、よくできたなぁと(安藤)”。揺るぎなき信念がある、建築は自分一人で造ってるものではない。

イタリアで安藤忠雄は言っていた。“みんなで20年一緒にやってたんですよ、このチームがあるから仕事ができている(安藤)”。アメリカで安藤忠雄は言っていた。“現場は良くやってるよ、彼は一番(安藤)”。“私ができることは知れとる、頑張ってやるけども知れとるね(安藤)”。

建築の大小は関係ない、大工も、左官職人も、クライアントも、建築家も、そして村人も、気持ちの数だけ建築は良くなる、良い建築をありがとう。彼の行くところ、常に大勢の人々が集まってくる、有名人だからではない、気持ちが国境を越え、文化を越え、言葉を越え、伝わっている証。安藤忠雄、彼は死ぬまで走り続ける・・・“もっと皆スピードあげて走らないかん若い子は(安藤)”。

建築家、安藤忠雄は何故、描いてくれたのか? “絵は下手かどうかは別にしてね、自分の気持ちだけで描いとる、それさえあれば誰にでもチャンスはある、一流大学出て、一流企業に行く、スタイルじゃない人たちがたくさんいるわけです、その人たちにもチャンスがある時代ですよ、自分の気持ちさえあれば、必ず前へ行くんです、だから諦めたらいかんのです(安藤)”。“全部にチャンスがあると、そのチャンスを逃がさないためには感性を磨いておれと、普段から(安藤)”。

安藤忠雄 安藤忠雄

見終わった感想

いです、凄すぎでした。“金は何の栄養にもならない”生き方してます、安藤忠雄氏は。常に走り続け、閃いた時だけ集中して構成していく。歩き、歩き、人と出会い、色々な建物、風景を観察して、その場所の空気や文化を刺激的に浴び続ける。

羨ましいとか言っていちゃダメなんです。彼は自分でチャンスをものにしてきた人ですから、私達もそのチャンスに出会うために、巡りあうために、考えながら走り続ける必要が在るのでしょう。嘆いている暇なんかありません。だったら何でもいいから行動に移せと。

自分も戦ってやるぞぉという気概が湧いてくる。失敗してもそれで終わりではない、自分が認めなければ。そこでの失敗はまた新たな可能性のために突き進めというメッセージなんだと思おう。がむしゃらに、一生懸命毎日を生きる。なんてシンプルなんだろう。何年かの月日が過ぎて自分が歩いてきた軌跡を振り返る時、そこには何が在るだろうか?

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