アラブ・イスラム世界で怒りが膨れ上がっている理由、心理的葛藤と自尊心喪失


アラブ・イスラム世界

アラブ・イスラム世界で怒りが膨れ上がっている理由、心理的葛藤と自尊心喪失

メリカの中間選挙が終わり、イラクからの撤退が決定的になりつつある今、トーマス・フリードマン氏の「フラット化する世界」には今後アラブ・イスラム系の社会に対してどのような理解と行動を示していけばいいのか、ヒントがたくさん書かれている。

異社会・異文化がじかに触れ合う機会が激増

世界のフラット化は、異社会・異文化がじかに触れ合う機会が激増するという、予想もしていなかった成り行きをもたらした。それも、人間や文化が心構えが出来る前に、急に接続してしまうことが多いグローバルに親密になって、共同作業の機会が出現したために、栄えている文化もある。

この密接な接続は、1対1で世界のあるゆる人間と向き合って、自分の立場を思い知らされるという現象をもたらす。だから、脅威や不満や屈辱を味わう文化もある。現在の最も危険な反フラット化勢力 – アルカイダの自爆テロリストをはじめとするイスラム系テロ組織 – が、イスラム世界とヨーロッパのイスラム社会から出現した理由は、これでおおむね説明できる。

・・・中略

しかし、そういったことだけが、アラブ・イスラム世界で怒りが膨れ上がっている理由ではない。アラブ人やイスラム教徒の多くは、独裁政権下で暮らし、自分達の将来について意見をいうことは許されない。何千万人もの若者が、いい仕事に就いたり進歩的な教育を受けたりして才能を充分に開花させる機会を奪われている。フラットな世界では、自分と他人の境遇を容易に比べれれる。そのことが人々の不満をされにきわだたせる。

ラット化によって不満や屈辱を味わうひとたちは、なにもアラブ・イスラム系のひとたちに限られたわけではない。アメリカ国内にも日本国内にもこのような気持ちを味わう層の人々は存在する。

ここで問題なのはその人々が属する社会の構造である。アメリカのように自国内から社会を変えていこうとするエネルギーや一般市民が参加して変化をもたらすようなシステムがある国ならばいいが、独裁政権下では不満のはけ口が破壊へと向かいやすいとしたら、日本の社会システムは大丈夫だろうか?

開放性の本質、思考と探究の自由

イスラム過激派・原理主義者が西側世界に目を向けるとき、われわれの開放的なところばかりを見て、それが退廃でふしだらと見なす。ブリトニー・スピアーズやジャネット・ジャクソンのかもしだすような開放性ばかりを見るからだ。われわれの開放性の本質は、思考と探究の自由であり、それが強い力をあたえ、ビル・ゲイツやサリー・ライドを生み出しているのだが、イスラム過激派・原理主義者は、それを見たくないし、目を向けないようにしている。

そして、墜落だと意図的に決め付ける。なぜなら、開放性、女性の権利向上、思考と探求の自由が、西欧の経済力のほんとうの源であるとすると、アラブ・イスラム世界も変わらざるをえなくなるからだ。だが、原理主義者や過激派は、変革を望まない。イスラム過激派は、開放性という脅威を撃退するために、社会を開かれたものにし、イノベーションし、フラット化する源、つまり信頼を、意図的に攻撃している。

自動車、航空機、テニスシューズ、携帯電話などの日常的な道具を無差別な暴力に悪用することで、信頼を弱めようとする。朝、オフィス街で駐車するとき、われわれは隣の車が爆発することなどないと信頼している。ディズニー・ワールドへ行った時、ミッキーマウスの気ぐるみを着た男がその下に爆弾を巻きつけていることはないと信頼している。

ボストンからニューヨークへ向かうシャトル便に乗るとき、隣の座席に座った外国人留学生のテニスシューズが爆発することはないと信頼している。こうした信頼がなければ、開かれた社会はありえない。開かれた社会のすべての開かれた部分を警官に巡回してもらうことなど、不可能だからだ。

信頼がなければ、フラットな世界もありえない。信頼があって初めて、壁を打ち倒し、障壁を取り除き、国境での摩擦をなくすことができる。サプライチェーンを通じ、10人、100人、1,000人のほとんど顔を合わせたこともない相手との取引を可能にするフラットな世界では、信頼は不可欠である。無差別テロにさらされると、開かれた社会での信頼は失われてゆき、壁が築かれ、堀が作られるようになる。

の当たり前の信頼を普段何にも考えることなく、当たり前のように存在し、受け止め、利用している西側諸国の人々はちょっとでもテロ行為に関係ある事態が社会で生じた場合、それ自体が未遂であっても多大な不便を被ることになる。

何気ない便利な日常生活に自分がコントロールすることのできない力で不便さを味わうとき、人々は大きなストレスと共に強い嫌悪感をその直接の原因となった団体や個人を探し出し、相手の立場を理解することなく無差別に攻撃し始める。

心理的葛藤と自尊心喪失

困ったことに、ビン・ラディン一派がアラブ・イスラム教徒から信者を勧誘するのは、きわめて簡単だ。アラブ・イスラム教徒の若者多数が、ことにヨーロッパで、半分だけフラットな世界に住んでいることが、一つの原因ではないだろうか。

この若者たちは、イスラム教こそ唯一の神の完全な言葉を伝えるもので、予言者ムハンマドは最後にして、完璧なる伝道者である、と教えられて育つ。これは批判ではない。イスラム教の信者としての自己認識の根底がそこにあると指摘しているだけだ。

しかし、フラットな世界で、こうした若者、とくにヨーロッパに住む若者が、世界におけるアラブ・イスラム世界を見ると、さまざまな面で地球上のほかの地域より遅れているのが目に留まる。他の文明社会のようには繁栄しておらず、民主的でもない。どうしてそうなのか? 若いアラブ・イスラム教徒は自問せざるをえない。

われわれの宗教は、信仰、政治、経済まですべてを網羅する優れた教えであるはずなのに、なぜ異教徒のほうがずっといい暮らしをしているのか? 多くのアラブ・イスラム教徒の若者の認知的協和 – 矛盾した考えが同時に存在することが原因の心理的葛藤 – の源は、そこにある。この心理的葛藤と自尊心喪失が怒りに火をつけて、一部の若者が暴力的な組織に加わり、激しく世界に襲いかかる。

メリカ同時多発テロ事件の実行犯の人たちが比較的知的な学位保持者であったにもかかわらずあのような行為に至った原因はここにあるのかもしれない。人は絶望と希望から危険を冒す。あの人たちやこれからのテロ行為予備軍たちは、自分の信ずる世界と現実の世界のギャップを自ら抱え込んでしまったのだろうか?

はけ口が怒りしかないとしたら、お互いにとって不幸であるし、これからも不幸であり続けるだろう。若くして自暴的な行動に走る若者達は、一部の人たちに利用されているだけかもしれない。他に解決策はないのだろうか? と自分達の内側から発見できないものだろうか?

イスラム世界のジレンマ、停滞と力

イスラムの学校ではコーランは神の啓示を受けて書かれた書物であり、文学的批判や独創的な解釈は許されないとしている。この神聖な書物は丸暗記するものであって、現代の生活の要求やさまざまな機会に合うように改変されてはならない。

しかし、独創的な解釈や批判的な意見を進んで受け入れるゆとりのある文化でないと、独創的な考え方はしぼむ。他の学者に引用されるような世界的に高いレベルの科学論文がアラブ・イスラム世界の大学でほとんど生み出されないとは、それが原因かもしれない。

・・・中略

ダルリンプルは述べている。かりに西洋世界でシェイクスピアが、われわれが研究すべき唯一の課題、われわれの生活の唯一の指針であったなら、たちどころに精神的停滞あるいは後退に陥るだろう。厄介なのは、イスラム教徒の多くが停滞と力を同時に望んでいることだ。七世紀と何一つ変わらない時代に戻りながら、二十一世紀を支配する。

それこそが自分達の教義の生得権、神から人にあたえられた最後の契約であると信じている。彼らが七世紀という沈滞した池に浸かって、なんの進化もない静寂主義のもとで安閉としていてくれるのであれば、お互いになんの問題もない。双方にとって厄介なのは、イスラム世界が求める力は、自由な探求の成果であるのに、自由な探求もそれを許容する哲学や機関もそこに存在しないことだ

しイスラム教の望む世界が本当にそのようなものであるならば、これから加速するであろう情報化社会に対して益々自分達の理想が現実離れしてゆくことを目の辺りにすることになるであろう。今のままでは西側諸国が当たり前のように使っているインターネットの世界など、同じような環境がアラブ・イスラム系の社会で形成されるとは想像できない。

インターネットの世界のすべてがいいものであるとは言い切れないが、その世界から得られるであろう知識や知恵の選択という人間の革新、進歩に利用できるものを得られないとするならば、アラブ・イスラム系社会に住む人々にとって自分たちが納得する形で現在、そして未来の社会に宗教共にアジャストしてゆくチャンスを自ら逃しているとしか言いようがない。

テロリズムは自尊心の欠乏から生まれる

この屈辱が重要な意味を持つ。テロリズムは金銭的欠乏から生まれるのではない、というのが私のかねてからの持論だ。テロリズムは自尊心の欠乏から生まれる。屈辱が生み出す力は、国際関係においても人間関係においても、必要以上に軽視される。人や国家は、屈辱を味わうと、攻撃的になり、極度の暴力行為に熱中する。

アラブ・イスラム世界全般の現在の経済的・政治的後進性に、過去の栄光と宗教的優位という自己認識が交じり合い、アラブ・イスラム教徒が祖国を離れてヨーロッパに移住し、あるいはヨーロッパで成長する時に感じる非差別意識と疎外感がそこに加味されると、怒りという名の強いカクテルができあがる。

辱。日本でも問題になっている格差社会。勝ち組や負け組みという論理。取り残されたひとたちをどのように扱うのかによって、その社会が支払う社会的なコストは莫大的に且つ、危険なものになりうる。アラブ・イスラム系社会だけではない。アメリカ国内にも、日本国内にもフラット化による屈辱を味わう人々は多数存在する。

フラット化した社会、情報化社会によってこの傾向はますます加速化するであろう。そしてその違いはますます大きなものになるに違いない。あまりにも違いが大きくなりすぎて、その存在につぶされてしまうのか? それとも他人に八つ当たりをするのか?

それとも社会全体が屈辱を味わう人々にも社会の上の層へ努力すれば移れる、というようなインセンティブな仕組みを示すことができるのか? ここまでどうしようもない事実を目のあたりにすると、こちら側も絶望的になってしまう。多くのこうした事実はもしかしたら、こちら側からの“どうせやっても無駄だろう”という状態に陥らせていないだろうか?

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