カーンアカデミーが教育システムを変える(1)、授業のカスタマイズと完全習得学習


授業風景

カーンアカデミーが教育システムを変える(1)、授業のカスタマイズと完全習得学習

そこには、人々の実際の学習法に関する基本的事実がいくつか抜け落ちています。学習スピードは人によって異なります。直感で即座に分かる人もいれば、こつこつと理解を深めて行く人もいます。速いから頭が良いというわけではなく、ましてや遅いから出来が悪いとは断じて言えません。

それに、速くわかることと完全に理解することは、同じではありません。したがって、学習のペースはスタイルの問題であり、相対的な知性がどうこうという問題ではありません。カメは最終的にウサギよりたくさんの知識、もっと有益で長持ちする知識を獲得するかもしれないのです。

さらに、算数で遅れがちだった生徒が、高等数学に必要な抽象的創造性では郡を抜くこともあります。大切なのは、1クラスの生徒が10人だろうが20人だろうが50人だろうが、彼らの理解力には常に差があるということです。生徒の理解度にかかわらず、国や州が決めたペースで先へ進まなければならないと先生が考えているようなら、たとえ生徒と同数の先生がいても理想的とは言えません。

そして、そのようにいささか強引な節目が来た時には、つまりモジュールを終了し、テストをして、次へ進むときには、やはり理解しきれなかった生徒が何人か残るでしょう。彼らはいずれは理解できるはずです。でも、それこそが問題なのです。標準的な教室モデルは「いずれは理解できる」生徒を受け入れる余地がありません。

規模の大小を問わず、クラスは次の授業へ進むからです。自分なりの家庭教師のやり方をあれこれ思案する中で、そして人々の学習実態に自分の手法を合わせようとするか中で、私が掲げた最初の方針は次の2つです。

一つは、授業のペースは誰かが勝手に決めたスケジュールではなく、生徒一人一人のニーズに合わせること。そしてもう一つは、生徒がいずれ高度な概念を習得できるよう、基礎となる概念をしっかり理解させること。

分が小中学生の時、このような事実を知っていたらどんなに楽だっただろう、と思う大人はきっと多いに違いない。私もその一人。皆と違うことをしてはいけないプレッシャーは相当なものだった。何か質問はありませんか、と先生が問いかけてもクラス大勢の中で、空気を乱すような質問は投げかけられまい!

こんな質問をしたらバカにされないだろうか? 初歩的なことが理解できていないけれど再び聞く勇気がない。きっと俺の、私の友達もわからないだろうから別にいいや。もしこの時点で、先生以外に、他の生徒以外に、親以外に自分の疑問点を投げかけてもいいような存在がいてくれるとしたら・・・

オンライン教材、カーンアカデミーのような自分のペースで何回も視聴できるような動画教材とか補助的なモジュールの存在が利用できるとしたら、生徒一人ひとりは自発的に行動するようになるのだろうか?

理解できる自分を発見した時、自分自身に対して自信を持ち始め、世に無数に散らばる謎だらけの仕組みを少しずつ解いては理解していく楽しさを体験するに違いない。このような自分学習のコツを掴んだ生徒はなぜなんだろう?という疑問に対してどのように解を求めていけばいいかのヒントを自分自身で探し求められるようになるであろう。

テクノロジーを教育現場に取り入れる

顔が人間にとって大事だとしたら、なぜそれをビデオから排除するのでしょう? それは顔が授業の内容から注意をそらすからです。まばたきする両目、ぴくりと引きつる鼻、言葉を発するたびに動く口、これら以上に人の注意をそらすものがあるでしょうか?

方程式と同じ画面に顔が映っていたら、視線はその両方の間を行ったり来たりして、集中力が鈍ります。会話の中身よりも相手の特徴ばかりが気になって、話の筋道がわからなくなった経験がみなさんにもあるでしょう。

だからといって、顔、先生の顔と生徒の顔、が指導プロセスにとって重要ではないと言うのではありません。それどころか、先生と生徒が顔を合わせれば、教室での体験に人間味が生まれ、先生も生徒も唯一無二の存在として輝きを放ちます。先生は顔の表情を通じて、共感、承認、そしてありとあらゆる微妙なニュアンスを伝えます。

生徒の方も、ストレスや自信のなさを表情に出し、考え方がとうとうわかった時には喜びの表情を浮かべます。しかしそうは言うものの、実際に顔を合わせる時間は、学習内容に初めてふれる時間とは別にすることが出来ますし、別にするべきだと私は思います。この2つは対立する概念ではなく、むしろ互いに補完しあうべきものです。

コンピューターによる授業は、教室での貴重な時間を制約から解き放ちます。一方的な講義モデル、すなわち生徒はぼんやりと腰掛けているだけで、先生は誰が理解していて誰がわかっていないのかを上手く把握できない、そんなモデルを採用する必要はもうありません。生徒たちが事前に授業を受けていれば、何か話したいことが出てきます。

教室で先生と生徒がやりとりをする機会が生まれます。この、最後の点が特に重要です。というのも、コンピューターによる指導は先生の存在意義をなくすとか、先生に求められるスキルのレベルを下げるとかいうふうに危惧する人がいるからです。実際はその正反対です。

生徒がまずオンラインで(ビデオまたは練習問題を通じて)学習内容に接していれば、先生の存在意義がもっと増します。理解できていない生徒一人一人と接する時間をとり、機械的な講義をやめて、助言、激励、視点の提示に専念することができます。

私の信念の中心をなす考えはこうです。教育においてテクノロジーは恐れるべきものではなく受け入れるべきものである。コンピューターレッスンを上手く賢く利用すれば、先生は本来すべき指導がしやすくなり、教室はぼんやりと座っているだけの場所ではなく、相互支援のためのワークショップへと様変わりするのだ、と。

徒が先生よりも情報を持っている、ある科目について先生よりも生徒のほうが知識がある、というような場面はこれからもっと頻繁に起こってくるに違いありません。ですがこの場合、先生はその生徒よりもある科目についての知識が不足していることから不適任というレッテルをはられるべきでしょうか? そんなことはありません。

情報化社会では誰もがある知識についてのアクセスは平等であります。故に生徒のほうが先生よりも多くの、より深い知識レベルに達していても不思議ではないのです。むしろ歓迎すべきことではないでしょうか。この生徒に先生の方からいろいろと教えてもらう。自信が生まれるでしょう。

先生はすべての科目において生徒よりも知識の上で上回っている状況など無理です。この場合は、生徒にここからどの方向への可能性があるかの道筋などを示してあげればいいのだと思います。先生の他にも躓いている生徒に教えてあげたり、理解できるように手伝ってあげることも可能でしょう。他の生徒は刺激を受けるはずです。

完全習得学習という考え方

生徒たちはそれぞれのペースで学習し、所定の習得レベルに達してから次の内容へ進みます。先生の役割は講師というよりも、案内役や助言者です。生徒同士の助け合いも奨励されます。生徒が生徒を手助けするのは、学習面でも人間形成の面でも有効です。苦戦する生徒はいても、誰一人見捨てられる者はいません。

・・・中略

そしてもう一つ、大きく変わった点があります。テクノロジーが完全習得学習のコストを飛躍的に下げたということです。紙のワークブックはもはや要りません。個別の練習問題をお金をかけて印刷する必要もありません。マイペースの学習に必要なものはすべてコンピューターの中に揃っています。

それを生徒に届ける費用はごくわずかです。目新しい教育法はお金がかかりすぎるとか、特権的な地域のエリート校が手がけるものにすぎないとかいう言い訳はもう通用しません。最後にもう一つ、完全習得学習システムについて検討しておきたい点があります。それは完全習得学習と個人の責任との関係です。

教育の責任、生徒、家族、地域社会、国家の責任、はもちろん、政治の世界であらゆる角度から盛んに議論されているテーマです。しかし、「責任をとる」ことは学習そのものとは無関係だ、責任は生徒ではなく保護者や教師が負えばよい、という声があまりにも多く聞かれます。

これはどれも間違っています。教育の責任をとることがすなわち教育であり、学習の責任をとることがすなわち学習です。生徒の立場からは、責任をとることで初めて真の学習が可能になります。完全習得学習のあり方に関する様々な研究から、このことは明らかです。

例えばある調査では、完全習得学習プログラムで学ぶ生徒は「学習や自身の学習能力について前向きな態度をとるようになった」とされています。今風の表現を使えば、自分たちの教育に当事者意識を持ちやすくなったということでしょうか。それを裏付けるように、「完全習得学習プログラムで学んだ生徒は、自らの学習に対する責任を引き受けるようになった」と結論づけている研究もあります。

私が力説するのは、標準的な教室モデルでは、個人の責任が軽視どころが阻害されていると感じるからです。受け身の姿勢が強いられ、カリキュラムの進行や時間ばかりが重視されるせいでしょう。自分がどのように学ぶかについて、ごく基本的なことさえ決めさせてもらえないと、生徒は当事者意識をきちんと持てません。

業のカスタマイズ。自分自身で新しいことをどんどん学んでいける学生はどんどん突き進んでいくがいい。他の生徒のことは気にすることはない。世界にはもの凄い頭の良い奴なんてたくさんいる。君より頭の良い奴なんて本当に沢山いるから。

ここに一つ問題がある。カーンアカデミーや他のオンライン教材、一般社会の中に取り入れられているケースのほとんどが英語圏での話ということ。日本語で翻訳されるまで待っていてはそれだけの間の時間的ロスはもったいない。どうであろう、理数系に関しては英語で習得することを標準にしてしまう。物理や化学、先端技術などのエンジニアリングの分野も英語で習得することにしてしまう。

どうせ世界に出て行けば学術的論文から、最先端の研究成果、先端技術開発などは英語で世界の人材とコラボレーションしていかなくてはいけなくなるから何も日本語で学習するメリットは無いと言ってもいいのではないだろうか。

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