カーンアカデミーが教育システムを変える(3)、理想的な教育モデルとは


教育モデル

カーンアカデミーが教育システムを変える(3)、理想的な教育モデルとは

標準的な教育モデルの基礎は実に堅固で安定しています。朝7時か8時に登校し、40~60分の授業を続けて受ける(そこでは先生が主に喋り、生徒は主に聞き役です)。合間に昼休みや体育の時間が在る。帰宅して宿題をする。標準的なカリキュラムでは、人間の思考という広大で素晴らしい領域が「教科」と呼ばれる扱いやすい単位に切り刻まれてしまいます。

海流のように互いに流入しあうはずの学習内容がせき止められて「単元」と化します。生徒たちは、オルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」を思わせ、人間の知性、想像力、才能を特徴づける多様性やニュアンスを無視したやり方で「評価」されます。

それが基本的なモデルです。学習や指導の終わりなき複雑さを覆い隠し、時には否定さえする、そんなごく単純な仕組みです。しかし、欠陥だらけであるにもかかわらず、この標準モデルには、他のどんな教育法にもまさる大きな利点が一つあります。厳然と存在し、実際に利用されているという事実です。すると私達は、それがなくてはならないと思いがちです。

ところが教育の歴史を少し調べるだけで、現在支配的な教室モデルが、必然でもなんでもないことが分かります。人間が取り入れるシステムはみんなそうですが、教育も一つの発明、発展途上の制度なのです。

それは時代時代の政治的・経済的・技術的な現実を反映し、既得権者の抵抗を受けながら進化してきました。最も、常にタイムリーな進化を遂げたわけではなく、古臭い教育法のせいで不運な若者たちが馬鹿を見た時代もあります。

都会の学校ではいきなり授業スタイルを変えていくのは難しいであろうと思われる。ヒントは過疎地に在る。全生徒、一年生から六年生を合わせても20人とかの学校ではカーンアカデミーが提唱するような授業スタイルを取り入れてはどうだろうか?

当たり前に存在している学校スタイル。同じようにバックグラウンドを共有し小学校、中学校、高校、大学を卒業していく。この過程を過ごしてきた個人は、社会に出ても同じような小学校、中学校、高校、大学で得てきたバックグラウンドを持ち合わせているため仲間意識、日本人的な同胞意識が生まれてくる。

しかしこれからの社会、日本式学校スタイルを体験してこないで成長してきた個人が必ず増えていく。英語環境で育った者、中国語環境で育った者。日本の学校で共有していると思われるバックグラウンドの話が共通で無くなる。だからといって日本語環境で育ってこなかった個人が優越感や劣等感を感じる必要など無い。

その個人がどのような学習バックグランドを体験していようが、そのようなことはあまり重要ではなく、むしろその個人がどのようにして社会に貢献しているのか、自分の人生をエンジョイすることができているのかの方に価値が置かれる。

日本式学校スタイル以外の選択肢を不安がる親御さんはマジョリティーであろう。社会もどのようにしてある個人の能力を信頼すればいいのか分からない。しかし現在採用されている標準的な教育モデルは過去のものになるに違いない。

プロイセン・モデル

標準的な教室モデルは政治的洗脳の機会を無限に提供しました。歴史をはじめとする社会科をどう教えるかなど、明々白々な洗脳もありましたが、もっと巧妙に若者の意識をつくり変えることもされました。かつてニューヨーク州最優秀教師に選ばれたジョン・エイラー・ガットは次のように書いています。

「この制度全体は、活きた情報からの隔離と、教師が提供する抽象的情報の断片化が、従順かつ従属的な卒業生を生み出すとの前提に立っていた」。学習内容全般が「教科」に細分化されたのは偶然ではありません。教科は丸暗記できますが、もっと大きな概念を習得するには自由で束縛されない思考が求められます。

同じくガットによると、「授業時間」という神聖なる枠組みは、「絶え間ない中断により学習の自発性をそぐ」ために導入されました。生徒たちに所定のカリキュラム以上のことを考えさせたり、異端の危険思想を話し合う時間を持たせたりしては断じてならない。チャイムが鳴ったら有無を言わさず会話や思考を中断させ、予定された次の回へ進ませる。

秩序が好奇心にまさり、規律が個人の主体性に優先する、というわけです。私自身は、プロイセン・モデルが人々を支配階級に従わせるための道具にすぎなかったとは思いません。当時にしては革新的で平等主義的な面が数多くありました。実際、税金による公的・普遍的な義務教育制度という考え方だけでも画期的です。

お陰で何百万という人人が中流階級の仲間入りを果たし、ドイツが工業大国として台頭出来たのですから。当時の技術を考えれば、教育をすべての人に提供する最も経済的な方法は、プロイセン・モデルだったかもしれません。しかし、意図したかどうかはともかく、このシステムは深い探究や自立した思考を阻む傾向がありました。

1800年代当時は、ハイレベルな創造的・論理的思考よりも、規律、従順、そして基本的スキルが大切だったかもしれません。しかしそれから200年たった今、前者が大切なのは言うまでもありません。

造的であるためには異なった環境で教育スタイルを受けてきた個人には有利に働くでしょう。違う、ということは脳を刺激する上で有効と思われます。違う箇所に意識が向かいますし、様々な感情も生まれてくるはずです。受け入れられる領域なのか、違うことがストレスを感じるレベルのものなのか?

逆に同じであることはどうでしょうか? 何かに注意を払うことは無くなり、というか気が付きません。ある意味、思考停止状態です。これでは停滞の状態が出来上がってしまい、そこから何かを始める、能動的にことを起こすとなると大変なエネルギーが必要になってきます。

脳みそを使うこと、考えることなどは非常にエネルギーを使うのです。だったら人間楽な方へ楽な方へ行ってしまうのは仕方がないこと。大勢の集団を管理するにはとても便利で、社会に安定をもたらしました。大量生産を安定的に供給するには余計なストレスは邪魔になります。

独創性や創造性は教えることができるか

では独創性や創造性は教えることができるでしょうか? 正直なところ、無理だと思います。ただ同時に、私が思い描く近未来の学校からは、創造性が泉のように湧き出るはずです。断言できます。そのための環境と時間が用意されているのですから。

この、一見単純そうな「時間」の問題について、少し考えてみましょう。従来の学校は、生徒が起きている時間のほぼ半分を消費します。宿題があれば、さらに少なからぬ時間が奪われます。この間ずっと、子供の労力や集中力は「全面的に予測可能な成果」をあげることに向けられます。全員が同じ問題を解き、同じ正解にたどりつこうとします。

基本的に同じ作文を書き、同じ日付や名前を覚えます。言い換えれば、創造とは反対のことをするために、起きている時間の半分以上を費やしているのです。すでにくどいほど述べたように、どんな学習内容も、土台さえしっかり押さえれば直感的に理解できると私は信じています。重要な成果を出すには、基礎を固める必要があります。

でも、基礎を固めるのに一日の半分を使う必要などまったくありません。マイペースで取り組めるビデオレッスンと、コンピューターに基づくフィードバック、チームティーチングを組み合わせれば、基礎の学習は一日1~2時間で十分です。それで浮いた5時間とか7時間は、個人やチームの創造的作業に回せます。

詩やコンピューターのコードを書いてもいいし、映画やロボットをつくってもいいでしょう。絵を描いてもいいし、物理や数学をオタク的に究めてもいいでしょう。独創的な数学、科学、工学はアートそのものなのです。

創造性を阻むのは、従来の学校に要する長い時間だけではありません。一日を細切れの授業に分けることもそうです。ところが、授業の終了は流れを遮断し、生徒たちは学習の中断を余儀なくされます。ある生徒が例えば、フランス革命の原因をもうちょっと詳しく知りたいと考えていたとしたら、これは最悪です。

しかし本当にまずいのは、生徒が大胆にも脇道にそれ、まったく新しい創造的なプロジェクトやアイデアに取り組んでいた場合です。そうしたクリエイティブな作業は、締め切りで区切ることなど出来ません。天才はタイムカードを押したりしません。誰かがアインシュタインに「よし、相対性理論とかいうのはこれまで。次はヨーロッパ史だ」なんて言うところを想像できますか?

ミケランジェロに「天井は時間切れ、今度は壁だ」なんて言えますか? しかし昔ながらの学校では、この手の創造性阻害や思考分断が絶えず起こっているのです。私が思い描く学校はこの点でまったく違います。学習内容のつながりや連続性を重視するので、ある科目と次の科目の間をふさぐ壁がありません。

マイペースで自発的に学習できるので、探究の打ち止めを告げる時計もありません。そして、テスト準備よりも概念的な深い理解が目標なので、好奇心の赴くままに学び続ける時間とゆとりがあります。創造性が泉のように湧き出る環境というのは、そういうことです。

しかし、多くの人はここで神経質になってしまいます。真の創造性を促す以上、失敗の可能性も覚悟しなければならない、と。難解な数学の問題を一年間考え続けて、答えが見つからなかったらどうするのか? 工学上の問題に対する新しいアプローチを何ヶ月も検討して、結局ものにならなかったら? 芝居の脚本を書いたものの、最終幕で煮詰まったら? 詩を書いたけれど、まったくの駄作だったら?

こうした失敗への恐れに対しては、「だから何?」と言っておきましょう。失敗の過程で学んだことがきっとあるはずです。野心的な、そして往々にして孤独な作業を続けた労力と勇気を称えるべきです。実現していたかもしれない偉大な成果に思いを馳せるべきです。それは大きな理想を追い、大きなリスクをとった人にしか達成できない成果です。

本書の冒頭に書いたように、アメリカがイノベーション大国でいられるのは、他の国々ほどリスクや失敗を恐れないのが一つの理由です。私達の学校もそれと同じように、安心して実験ができる場所、失敗を恥ではなく学習機会ととらえる場所でなければなりません。

残念ながら、今の教育機関は常に失敗を恐れ、憎み、下品な言葉と見なします。ABC評価の世界では、DやFは汚点です。もろいベンチマークと政治的インセンティブに支えられたシステムにおいて、「失敗」は不名誉であり、処罰の対象です。だから私達は、全員が「成功」できるようにという愚かな望みを抱いて、ハードルを下げ、期待値を下げるのです。

しかし、このような態度は偽善的だし、恩着せがましくもあります。卓越性という理想を骨抜きにするばかりか、結果のいかんにかかわらず高い目標を掲げることの価値をまったく理解していません。私達の世界に必要なのは、大胆な発想と革新的なアプローチです。それは予定調和的な小さな成功よりも、大きな失敗から生まれるものです。

したがって、私が心に描く学校では、失敗が許され、脱線が奨励され、大きな理想が(結果はどうあれ)プロセスとして歓迎されます。これは子供の創造性を高める魔法の処方箋なんかではなく、私達一人一人の中にすでに存在する創造性、そして世界を変える数少ない英雄の図抜けた創造性に、光と空間と時間を与える手段なのです。

かをゼロから創造していく、もっと簡単なレベルまで話を持って行くと、何かを作るという作業は楽しいものです。没頭します、あっという間に時間は過ぎていき、この間の集中力は凄いものがあります。一日にこのような時間を持てる個人は毎日充実していることでしょう。

没頭して作業をし続けていると次から次へと新しいアイデアが生まれてきます。もしかしたらあれを試してみようか、そういえばこれが役に立つかもしれない。関連した閃きは想像力をふくらませていきます。そしてこの過程では必ず壁にぶつかります。

ここからが大事なのです。自己学習ができる個人はマイペースで、いつでもどこでも、誰からでも知識を得ることができることを知っているので焦らず、不安がらずに、じっくりと確立して新しい体験をものにしていきます。こうすることによってそれまで続けていた没頭の世界、創造していた対象に新しいレベルからの想像を加える事ができるのです。

楽しい作業だと思いませんか? たとえそれら一つ一つの創造物が社会に対して何の役に立たないとしてもいいじゃありませんか。祝福された時間を過ごしている個人が社会に増えることで、その社会は満足感に包まれていくのだと思います。

そのような社会には嫉妬や妬みなどありません。劣等感もありません。自己満足でいいのだと思います。充実した日々を過ごしていく。自分のペースで一生何か新しいことを学んでいくことは決して退屈な時間を与えるものではないと思います。何をすればいいのかわからない、何かを他人から、外からの刺激によって受動的に待っている。このことは不安であるはずです。

刺激に包まれ、創造する何かを持っている個人はマイペースで良いのです。自分の満足感が全てですから・・・

独創性

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