カーンアカデミーが教育システムを変える(4)、宿題と夏休みについての考察


宿題

カーンアカデミーが教育システムを変える(4)、宿題と夏休みについての考察

さて、元の質問に戻りましょう。宿題の正しい量はどれくらいか? 答えは「誰もわからない。場合による」。この答えに納得出来ないあなたは、実は彗眼の持ち主です。そう、意義ある答えが見つからないのは、質問の仕方が間違っているからです。本当はもっと基本的な問いかけをしなければなりません。宿題の量以前に、なぜそもそも宿題なのか、と。

なぜ、厳格な時間割に沿って教室で教える内容もあれば、時間が決まっていない自宅でやらせる内容もあるのでしょう? なぜ、先生がクラス全体に講義形式で情報を伝えてから、(質問する機会も手助けしてもらう機会も与えず)家で子供に宿題をやらせるのが一番良い、と私達は考えるのでしょう?

カリキュラムや政府のガイドラインを守るべしというプレッシャーの中、宿題の内容を復習したり話しあったりするのはほとんど不可能です。復習できない宿題に価値が在るのでしょうか? こうした疑問を、私達はとっくに発しているべきでした。長い慣習の上にあぐらをかく既存の教育会を脅かす疑問ではありますが。

一見ごく単純な問いかけから始めましょう。それはあまりに単純なので、口にだすのもはばかられるのですが、実は宿題に関する矛盾や誤解を白日のもとにさらしてくれます。すなわち、なぜ宿題は家でやることになったのか?

人によって答えは様々でしょう。生徒に自己責任や時間管理を教えるためだと考える人もいれば、自主的な学習態度を養うためだと言う人もいるでしょう。どちらも中々いいですね。

が学生時代、一番嫌だったのは他人から、この場合は先生でしょうが、与えられる宿題に自分の興味、エネルギーを注ぐに値する知的好奇心的な興味の対象になり得ない宿題に自分の貴重な時間を割くことに不満を覚えました。もっと自分はこのような方法で、自分のペースで自分なりに学習したいのになぁとよく感じたものです。しかしそんな時間的な余裕などないのが現実でした。宿題というシステムは与える側にとっては便利なものです。

宿題は子供の教育に両親を巻き込むためのもの

こうなるとはたして、ただ一緒に過ごすのではなく、宿題をするのが家族にとって最も良い時間の使い方なのでしょうか? 各種調査によると、そうではなさそうです。ミシガン大学により大規模な調査では、学力テストの得点アップと問題行動の減少をもたらす最大の要因は、宿題に費やす時間ではなく、家族で食卓を囲む頻度とその時間の長さであることがわかりました。

よくよく考えれば、これは別に不思議でもなんでもありません。家族の皆が一緒に語り合う、つまり親子が意見を交換し、互いの言い分に関心を示すとき、子供は価値観を吸収し、意欲や自尊心を身につけます。要は、熱意在る学習者になるための資質や姿勢が養われるのです。これは宿題なんかよりも大切なことです。

宿題にはもうひとつ予期せぬ副作用があります。伝統的な宿題は不平等を促す効果があり、その点で公教育の目的や私達の公平感に反するのです。親が宿題を手伝える場合は、親に学歴があるほうが断然有利です。親が直接手伝わない場合でも、本がたくさんある家だとか、代々教育面で成功している家系だとかは有利です。

裕福な家の子供は、放課後のアルバイトや親の手伝いに忙殺されなくてもすみます。つまり宿題は、教育的に恵まれた子がさらに恵まれ、恵まれない子がさらに恵まれなくなる、そんな不公平な条件を強化するわけです。そうした難点があるのに、なぜ宿題は長い間必要とされてきたのでしょう?

それは宿題そのもののメリットが大きいからというよりも、教室で起こることのデメリットがはっきりしているからだと思います。学校で十分な学習がされないから、宿題が必要になるのです。ではなぜ、学習はあてがわれた時間内で完了しないのか? それは、標準的な教室モデルの中心をなす講義形式の画一的な授業が、きわめて効率の悪い指導・学習法だからです。

供は視野が狭いのはしかたがないことです。産んでくれた親を選べないとしたら自分がはまってしまったある家庭環境を受け入れるしか無いとしたら、その子供には何かを変えてやろうという気概というか、そもそも外の世界に可能性が存在することすら気がつくことはないに違いありません。

現在の社会にはインターネットが存在しています。ネットに繋がる環境さえ社会が提供してあげれば、親の経済状態に関係なく、子供には広い世の中、無限に広がる知識の世界を体験することができるのではないでしょうか? 宿題を手助けしてくれる人物は、同級生である必要もありません。その存在は自分より年上かもしれません。日本人ではないかもしれません。

いいではありませんか。このような機会を通して子供は知らず知らずの内に自分の視野を広げているのです。家庭環境の差は社会が補うべきだと思います。無駄に公共施設を建設するぐらいなら、24時間、毎日週7日、一年365日、利用できる図書館を沢山作って欲しいと思います。そこには自分自身に対して知識武装したい大人、子供、お年寄りなどが集まってくる場所となるはずです。

2014年1月19日(日)出現! “図書館都市”

夏休みを見直す

次の提言が諸手を挙げて歓迎されることはないでしょう。でも私はやはりこだわりたいのです。教育を20世紀に、いやいや21世紀に合ったものにしたいなら、夏休みを全面的に見直す必要があると。

現代教育を人々のニーズに合わない非効率なものにした、数々の古臭い考え方や慣習の中でも、夏休みのひどさは最たるものです。まるで都会の中の農業遺跡です。もちろんこれが、ほとんどの人がまだ農場住まいだった1730年とかであれば、夏休みも意味がありました。子供の教育以前に、食べることが何よりも大切だった時代。

男の子も女の子も年齢に関係なく、畑仕事を手伝うのが当たり前でした。でも、それも過去の話。少なくとも工業国においてはこの1~2世紀、そんな社会はもう見当たらないことに教育会のお歴々は気づかなかったのでしょうか?

今の夏休みは、時間とお金の壮大なる無駄です。世界中で、何百億~何千億ドルにも相当する教育インフラ(校舎や実験室、体育館)がもぬけの殻のまま、ほとんど使われないのです。先生は教鞭をとらず、事務方は事務をしない。最悪なのはもちろん、生徒が学習しないことです。学習を中断させるだけでも十分罪に値します。

継続性を破り、勢いをそいでしまうからです。ご存知のように自転車のペダルは、こぎつづけるほうが、いったん止まってからもう一度こぎはじめるより簡単です。学習でもそれは同じです。しかし、夏休みがよくないのは、子供が学習をやめるからだけではありません。学んだことをたちまち忘れていくからです。

神経科学の話のときに少し見たように、私達が「学習」と呼ぶものは、脳内での新しい蛋白質の合成や新しい神経経路の形成と物理的に関係しています。この神経経路は繰り返しや関連付けによって強化されますが、使わないと弱まります。そして使わない状態が続くと、回路がダウンしてしまいます。

「忘れる」というのは、使っていた神経経路の退化を意味します。もし子供に10週間の休みを与えたら、比喩でも誇張でもなく、代数に関して知っていたことの一部が脳からすっかり消え去り、血流に再吸収されます。これでは、2次方程式を解いたりその後の学習内容を理解したりする上で、百害あって一利なしです。

休みを認めない鬼のようなやつという烙印を押される前に弁解しておくと、私だって夏という季節の素晴らしさや、学校から離れた時間の価値がわからないわけではありません。学校がないときにこそできる学びはたくさんあります。裕福な家庭なら子どもと一緒に旅行して、彼らの視野を広げてやることもできるでしょう。

お金のかかるサマーキャンプに参加して、楽しみながら学ぶ経験ができる、そんな恵まれた子も中にはいるでしょう。そして、家庭の経済状況にかかわらずどんな子供も、普段は中々時間がとれないけれど、やってみると実に有意義で印象深い、ちょっと変わった課題にチャレンジすることができます。

・・・中略

そんな思い出はともかく学習という意味では、夏休みの大部分が無駄になっているのが今の現実です。親が仕事から帰るのを待つ間、子供達はテレビを見るかゲームをするか。本を読む子もいますが少数派です。机に向かっての勉強となると、もう期待するほうが無理でしょう。前年の教科書は行方不明。先生はおらず、フィードバックも受けられない。校舎はしまったまま。脳は夏なのに冬眠状態です。

では未来の学校は夏休みにどう対処すべきなのでしょう? 私の提案は必要な時にいつでも休みがとれるようにすることです。会社と似たようなシステムでしょうか。いろいろな年齢の生徒が交じってマイペースで学んでいれば、次学年への進学といった無理やりの節目はもうありません。

家族でヨーロッパ旅行に出かけたいなら、それも良し。知り合いが休暇で遊びに来るにせよ、事業を始めるにせよ、休みたい時に休めばいいのです。自分のペースで勉強していますから、「授業を受け損なう」心配もありません。その上、やりたい時にビデオや練習問題にアクセスできるので、旅行中だって存分に学ぶことができます。

同じ柔軟性は先生にも当てはまります。複数教師制ですから、夏休みはずらしてとることができます。リフレッシュや旅行のチャンスをあきらめる必要はありません。しかも以上のことは、学校を完全に閉じなくても実現できるのです。

供は夏休みの間、どのように過ごしたかによってその成長ぶりが把握できるといいます。夏休みに部活動に明け暮れる、バイトをして終わってしまった。これはこれで良い思い出です。集団で何かの行動をする(修学旅行とか林間学校体験)以外だったら夏休みのような長期休暇は、まだ自分で自分の時間を管理することに慣れていない子供には必要ないかもしれません。

日本だったら非行に走るきっかけを得るのも夏休みに起こりやすい傾向がありますし。子供の休みに合わせて集団で行動をするから日本人は余暇の利用がいつまでたっても他人と一緒という枠から出れないのです。大勢の人が一緒に同じような目的地を目指すから混雑しているし、時間のロスなどもったいないものばかりです。

もっと有意義に個々人が自分の生活スタイルに合わせた休暇の取り方をするのであれば、社会のダイナミズムは一年中、スムーズに営われるのではないでしょうか。家族それぞれの事情がありますから、短い小学2年生や長い中学1年生があっても良いのです。いや、そもそもこの小学2年生や中学1年生という概念すら今後無くなっていくでしょう。

子供はある学習プログラム習得を目指していけば良いのです。何年かかろうが、何歳で終わろうがそれぞれマイペースで、いつでもどこでも、学習を続けていく。将来の教育システムの方向性は今現在とは違ったものになっていることは間違いないでしょう。それが起こるのが早い時期なのか遅い時期なのかの違いだけです・・・

夏休み

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