カーンアカデミーが教育システムを変える(5)、同年齢集団と複数教師システム


同年齢集団

カーンアカデミーが教育システムを変える(5)、同年齢集団と複数教師システム

現代人の大半は同じような年齢の子供達がいる学校へ通い、初等教育から中等教育、さらには高等教育まで、この同年齢集団に属し続けてきました。誕生日で子供たちをくくった上で、1学年ずつ進級させるというこの基本モデルは、当たり前すぎて、誰も疑問を挟まないように思えます。でも、あらためて考えてみるべきです。それだけ大きな影響力を持っていることなのですから。

まず、この年齢層別教育は、歴史上常に存在したわけではないことを思い出してください。どんな教育習慣もそうですが、年齢別の教育も特定の場所や時代に、特定の条件を受けて人間がこしらえたものです。産業革命以前は、子供達を年齢でくくるというのは例外的でした。ほとんどの人が農場に住み、人口密度も低かったので、現実的ではなかったのです。

工業化の進展とともに都市化が起こり、人口密度が高まると、たくさんの教室を概する学校が登場します。子供達をなんらかのかたちで分ける必要がありましたから、年齢別クラスというのは論理的な選択だったのでしょう。しかし、子供を年齢別に隔離することの影響は実にたくさんあり、それは良い影響に限らないことがわかっています。

プロイセンの人々をまた責めるわけではありませんが、すでに見たように、プロイセン・モデルの基本思想は、人間の知識をあえて窮屈な単位に分けることにありました。人間的思考の、壮大でよどみなくつながった各領域が、独立した「教科」へと切り刻まれます。一日の授業は1時間目、2時間目というふうに「コマ」に分けられ、ベルが鳴ったら議論や説明は打ち切りです。

生徒を年齢別に分けるという行為は、これに輪をかけて教育を切り刻み、細分化し、そして管理しやすくします。おそらく、数ある細分化の中でも、この年齢別区分が一番強力です。一定のカリキュラムを設け、各学年で学ぶべき内容を恣意的ながら合意に基づいて決めることができるからです。

同学年の生徒に期待されることはまったく同じ。まるで横並びの金太郎飴です。ひとたび年齢別に分けたら、目標は明確ですし、テストも簡単です。科学的・進歩的で、管理する側にも便利でした。しかし、その過程で失われたものには、まったくと言っていいほど目が向けられませんでした。

当たり前のことをあえて述べれば、子供達を年齢で区別するのはけっして自然なことではありません。家族は同年齢集団ではありませんし、それは世界でも同じです。人類の歴史上、子供はむしろそれとは逆の方法で学習し、社会化してきました。

「ミッキーマウス・クラブ」でさえ、様々な年齢の子供がいましたし、子供たちのまわりで過ごしたことがある人ならお分かりのように、いろいろな年齢が混じっていると、年上の子も年下の子もそれぞれ得るものがあります。

年上の子は年下の子に対して責任を持ちます。年下のほうは年上を尊敬し、そのまねをします。どちらも少し背伸びをして、難局に対処するのです。この交わりをなくすと、失うものが皆にあります。年下の子はヒーロー、アイドル、助言者を失います。そして、こちらのほうがさらに問題だと思いますが、年上の子はリーダーになり、責任を果たす機会を奪われ、したがっていつまでも子供のままです。

校のあり方が根本的に変わっていく。少子高齢化社会に合った学習スタイル。日本独特のものを開発してもいいであろう。時間を持て余している高齢者たちはもう一度学校へ戻ってはいかがだろうか? 自分のペースで何かを学んでいく。自分が知っている分野は子供達に教えてあげる、アドバイスなどを与える良き相談相手にもなる。

子供同士の世界の中にお年寄りが交じり合って授業を組んでいけば、いじめ防止にもつながるし、子供も先生以外の大人を知ることで刺激を受ける。お年寄りは高齢者相手で刺激のない日常生活から活気あふれる子供達と触れ合うことで精神的にも若返る。

日本的な伝統、古き良き日本の文化、歴史など、生活習慣から日本語の読み書きに至るまで若い世代に伝え残していかなくてはいけない。この受け渡しの場が新しい学校教室になるのである。義務教育は何歳になっても受けられるようにしてはいかがだろうか?

複数教師システム

先生が一人の教室では先生は一人だけです。一人の先生んが持つ技倆しか、そこでは発揮されません。クラスに先生が何人もいれば、その組み合わせは幾何級数的に増加します。必要なら、先生たちが協力して教えることもできます。例えばディベートで別々の立場に立つとか、プロジェクトの立ち上げに別々のチームで取り組むとか。

また、ある学習内容について特別に専門性の高い先生がいたら、そこはその先生が好きなように進めてもいいでしょう。誰かが休みを取るときにはローテーションを組みやすいので、あの「代用教員」がもたらす混乱や効率の悪さを避ける事もできます。

何よりも、教育は複雑で多面的な仕事であり、まったく同じ強み・弱みを持つ人間は二人といませんから、クラスにたくさんの先生がいれば、それぞれの先生は自分の強みや得意分野に集中しやすくなります。これは幅広い角度からものを考える人間になる上で役立ちますし、多種多様な意見がある世の中に踏み出す準備にもなります。

教育面だけでなく感情面でも、教室にたくさんの先生がいるのは意味があります。人間というのは不思議なもので、生徒と先生の間には相性みたいなものがあり、相性の良さは両者の絆を深めるきっかけになります。一つの教室に何人か先生がいれば、こうした不思議が生じる可能性も高くなります。

最後に、複数教師システムは、先生の「燃え尽き症候群」という深刻な問題の解決にも役立つでしょう。職業上の交流や同僚からのその場でのサポートが増えれば、仕事のストレスも減るはずです。他の職業分野と同じように、お互いを観察し合い、助言しあうことができます。若手の教師は経験豊かな先生から学び、先輩教師は若手からエネルギーや新鮮なアイデアを吸収します。だれもが孤立しにくくなるわけです。

にも先生という枠にこだわらなくてもいいような気もします。現役のビジネスマンでもいいですし、主婦でも良いのです。要は子供達にサポートしてあげることができる大人からの姿勢が求められているのであり、先生以外からの出席も歓迎するべきです。

授業はあくまでも教育のプロ、先生に進行は任せて、補助的なサポートは実社会で活躍している社会人からの指摘などは子供達にとって刺激そのものとなるはずだと思います。研究施設からの出席者、海外からの国籍の違う出席者も歓迎されるべきです。

子供達は知らず知らずのうちに社会の多様性を体験することでしょう。先生にとっても何かのヒントを得られる機会となる可能性もあります。その国の将来を担う子供達を今現在の社会を切り盛りしている大人たちがしっかり成長の舵取りを手伝っていく。

どのような国にしたいかはどのような子供達が育っていき、将来活躍して社会を運営していく、ということに繋がっているのだと思います。

先生とコーチ

チームワークといえば、先生を毛嫌いするくせにコーチを崇拝する子供がいることをご存知でしょうか? 一見、これは道理に合わない話です。先生もコーチも子供を助けるためにいます。どちらも生徒が嫌がる難しいことをやらせます。方程式を導かせるだとか、何本もダッシュをさせるだとか。なのに、先生に対する生徒の態度は敵対的で、コーチに対しては熱狂的・協力的、この劇的な差は何なのでしょう?

もちろんひとつには、先生は生徒にとって「義務」の象徴であるが、コーチは生徒自身の「選択」の象徴である、という理由が考えられるでしょう。しかし、それだけでは説明がつきそうにありません。子供がコーチを尊敬して言うことを聞く大きな理由は、コーチが生徒の側についていることがはっきりしているからではないでしょうか。

子供達が勝利のよりこびを味わえるよう、コーチは彼らの可能性を最大限引き出そうとします。チームスポーツでは狩猟民族の気迫と集中力を教え込み、個人競技では重要な盟友として彼らの前に立ちはだかります。子供達が勝てば一緒になって喜び、負ければ慰め、敗北の中に教訓を探します。

対照的に、多くの生徒の立場からすると、生徒は自分たちの味方には思えません。敵との競争に備える手助けをしてくれる人ではありません。残念ながら、先生こそが敵そのものと見なされることもよくあります。子供に自由な時間を与えず、むしろ屈辱を与えるために、意味のない課題や支離滅裂な公式を押し付ける存在である、と。

これは公平な見方でしょうか? もちろん、そんなことはありません。ほとんどの先生は少なくともコーチと同じくらい生徒のことを気にかけています。ではなぜ、そんなふうになるのでしょう?

それは先生が、システムの中で、生徒を決まったスピードで前へ運ぶよう義務付けられているからです。そのシステムにおいては、競争の激しい世界で成功するのに必要な学習内容のマスターのためではなく、生徒たちの分類・選別のために評価テストが利用されます。はっきり言って、先生はコーチに劣らず、競争社会に立ち向かう生徒を応援しようとしているのに、そのメッセージが明確にされることはめったにありません。

それを伝えるためには、やはり次のことをはっきりさせるしかありません。教室での授業は、実社会での競争に対する準備にほかならない。テストは、生徒にレッテルを貼って恥をかかせるためではなく、生徒の能力を微修正するためにある。100点が取れなかったのは、頭が悪いからではなく、取り組むべき課題がまだあるからだ。

そうすれば先生は、生徒を次のもっと難しい内容へ無理やり進ませることではなく、生徒が自分の弱点を克服できるよう働きかけることを優先するでしょう。先生もコーチと同じように、「可能なかぎり創造的な、自分の頭で考える人間になってほしいからこそ、完全にマスターしてもらわないと意味が無い」ということを強調しなければなりません。

い未熟な子供達を自立させていくように仕向けていく。魚を与えるのではなく、魚を取る方法を教えてあげる。そうすればその子供はどこへ行こうが魚を確保できるであろう。知識をただ単に与えるのではなく、知識をものにしていく方法、それによって得る可能性などを教えてあげる。その子供は将来どこへ行こうが何歳になろうが、新しく変化していく社会に適応する能力を備えているに違いない。

どんな社会になろうとも、どんな世の中に変化しようとも、自分で学習して自分を新しい環境に適応させていくことができる方法を自分の中に確立して存在しているのならば、その個人は無敵であろう。そのような個人を沢山輩出する新しい教育システムの適応が社会に求められている。天は自ら助くる者を助く。God helps those who help themselves.

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