土下座を強制する雰囲気が社会に充満している日本社会を外から見て思うこと


土下座

土下座を強制する雰囲気が社会に充満している日本社会を外から見て思うこと

月8日にNHKクローズアップ現代で「氾濫する土下座」というタイトルで特集が組まれていました。私自身、日本で話題になったドラマ「半沢直樹」を視聴していないので感覚として掴みようがないのですが、驚異的な視聴率獲得にはドラマの中で多用された土下座シーンから世間がカタルシスを得ていたという視点に驚きました。

ツイッターでもお店の定員に土下座を強制させた上にその様子を写真に収め、ネット上にその画像を晒したとして土下座写真を公開したその人物が叩かれていましたけど、そこまでその人を追い込ませる原因はどこに在るのでしょうか?

学校の先生に教え子の親が土下座を強制させる。お店のお客様が店員に土下座を強制させる。不正を起こした企業が世間に向かって土下座を行う。タレントが不祥事を起こし、謝罪会見を公開して世間に対して反省の弁を述べる。公開処刑と時事芸人のプチ鹿島さんが揶揄していましたけど、これ(公開処刑)って独裁体制下の、共産主義国社会での出来事みたいだと思いませんか?

嫉妬社会

い者、自分より立場の上の者、自分より幸せそうな人。この人達が何かのきっかけで脚をすくわれるのを見て、ざまーみろ、と思う人って結構居ると思うんです、日本社会の中に。自分より良い思いをしている対象に対して嫉妬するというか、アイツ、生意気だなぁとか、ちょっと最近調子のってるよなぁ、とか・・・

お陰様で、って言葉。あなたのお陰で、世間様のお陰で、と日本って自分の努力の結果、あることを達成しても謙遜しないといけないんです。別に自分の築いてきた立場を威張れと言っているわけではなく、勿論、自分一人の努力から成功したわけでもないんですけど、風当たりが強くならないよう世間様に対して奢った姿勢を見せないほうがいいわけです、日本社会は。

説明責任

メリカ社会はどうかというと、何か不祥事を起こした場合、必ず説明責任をさせられます。どうして起こったのか、何が原因で起こった可能性があるのか、今後の改善点をどのように行動で示していくのかなど、全体像を把握しようと努めます。トヨタ自動車の大規模リコール (2009年-2010年)では公聴会を開き、情報開示を求め、豊田章男社長などに説明責任をきちんと果たすよう求めました。

日本社会のように世間に対して土下座をしてお終いというわけではなく、その前後に検証などの思考が入るんです。土下座してお終い、というのはしょうが無い、許してやるかとか、あぁスッキリした、とかいう精神状態を作り出しても、肝心の思考が存在していない気がするんです。どうしてそのようなことが起こってしまったのか、という思考です。

やめなければ収まらない日本の風潮

レントの不祥事、レギュラー番組降板という形で世間が受け入れる。ほとぼりが収まるまで社会の日陰で過ごすことを強制させられる。日本プロ野球で問題になった統一球を密かに変更していた問題。加藤良三コミッショナーなどに調査した第三者委員会の最終報告に対する同委への質疑応答は社会に公開されることはなく終了。

これからの教訓として活かされること無く、これらの真実を集団的叡智として獲得すること無く、日本人は曖昧なまま、思考を巡らすこと無く過去のこととして処理していく。毎日日々の生活に忙しく、余裕がなくなっているのかなぁ、殺伐としているのかなぁ、と想像してしまいます。風通しよい社会にするには何が必要なのでしょか? 日当たりが良い日本社会にするには何が必要なのでしょうか?

お客様は神様?であるという日本のサービス

れも線引が難しい気がします。客だからといって無理な要求をするわけではなく、どこまでが客にとっての当然の権利なのか? お客様だからといって世間からの評判を気にするあまり、あまりにも過剰なサービスに陥っていないか? どこまでが当たり前の領域なのでしょうか? 日本のサービスって本当に凄いんです、アメリカのそれと比べると。

クレーム処理

本ではまず謝罪です。自分たちの立場が客観的に見て正しい場合でもまずは謝罪。お客様の言い分を全面的に受け入れる。この姿勢が大事だと思われます。この姿勢が今日本社会でエスカレートし過ぎていて謝罪ではなく屈服、降伏という形を社会が求めている。人間誰しもミスは犯しますから、ではその時に、どのような雰囲気が日本社会に充満しているのが望ましいのか検討して実行、立証して社会の基本姿勢にしていけばいいわけです。

アメリカの場合は訴訟社会なのでまず損得を考えるような気がします。自分たちはどこまで悪いのだろうか? 相手の言い分はどこまで筋が通っているのだろうか? やはりバックグラウンドの違う人間の寄せ集め社会なので公正な立場に立って問題の本質を見極める場に解を求めないと理解し合えないのだと思います。どちらがエネルギーが居るかと言ったらアメリカ社会のような気がするのは私だけでしょうか?

村八分社会、異質を攻撃するいじめ社会

間からの同調圧力に屈しないためにはどうすればいいのでしょうか? 一人一人が人と違うことをする勇気がまず必要でしょうし、社会にも異質を受け入れる余裕がないとダメだと思います。自分が正しいと思うなら行動に移せばいいですし、日本国内だけで処理しようとする思考も視野を狭めるだけなのでお勧めできません。

むしろ積極的に外と繋がっていく努力をする。学校以外に、会社以外に、家族以外に、日本以外に、外の世界と積極的に繋がる。人でもいいですし、新しい環境でも、文化でも、生活スタイルでもいいので、日本社会が共有しているある一つの人生展開モデル以外の生き方を実践していく勇気がほしいと思います。

後自分も何かに向かって努力する。大事だと思います。何かに自分も努力していけば、他人の脚をすくうことなく、お互いが目標に向かって階段を登っていくことができる。お互い励まし合い、助けあいながら、上昇していく。そこには嫉妬という雰囲気は生まれないと思うのですがいかがでしょう?

そしてそのような姿勢はどんどん社会に対して、世間に対して公開していって社会にポジティブなエネルギーを発散させていくのです。息苦しかったら外へ出て気持ちの良い空気を吸えば良いんです。社会の中で、人生の中で、清々しい汗をかくことができればもう少し日本社会も風通しがよくなると思うんですけど・・・

お互いに励まし合う

下座なんかさせないで、その原因を追求する。どうしてそうなったのか? 本人の口からその原因を本人が悟ったように語り出した時がその問題の本質だと思います。人を憎まず、その問題の解をこれからへと生かしていく。そうすることで社会全体が前へ進んでいる感を皆が持てると思うんですけど難しのでしょうか・・・


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