島国根性、日本 – 管理、規制する側と自由になることに怯える日本人


青少年ネット規制法

島国根性、日本 – 管理、規制する側と自由になることに怯える日本人

知県と京都府で女子高校生が殺された事件が新しい法案可決に向けての追い風になるかもしれない。その法案とは青少年ネット規制法案というものらしいが、すこし前からネット上でこの法案に関する意見がブログなどで上がり始めていた。

青少年の健全な育成のためのインターネットの利用による青少年有害情報の閲覧の防止等に関する法律案」、略して青少年ネット規制法案。この法案が、ネット業界に大きな波紋を呼んでいる。ネット関連企業や団体からは相次いで反対声明が出され、臨戦モードが漂い始めている。ネット業界から噴出する異論反論に、法案策定の中心人物である高市早苗議員が答える。

そしてつい最近、この青少年ネット規制法案策定の中心人物である高市早苗議員が実際のところどのようにお考えなのかのエントリーがネット上に上がったのだ。

そのためにブロードバンド環境の整備はもちろんですが、子供のうちからパソコンを使いこなせるスキルを習得させる情報教育を推進したいと考えていました。離島・山間部では周りに社会学習施設も少ないですから、遠隔授業などで多様な学習を受けられるようにもしたいのです。

ところが、こうした話を地元でしますと、小学生の保護者の方々からこんなことを言われてしまったのです。「学校でそんなことを教えて、万が一有害な情報に触れたりすることをどう考えるのか」と。メリットよりも、むしろ「インターネットって危ない」という捉え方が、根強くありました。

そして、色々な場所で子育て中のお父さんお母さんの話を聞いていくうちに次第にこう思うようになっていきました。 IT を存分に活用して国の競争力をつけ、子供の教育にも活用していくためにはまずリスクの部分をできるだけ克服して、親に安心感をもってもらうことが大事だと。(  【焦点を聞く】ネット規制、親が守れないなら国が守る !   )

他人任せの日本の親たち

御さんの気持ちもわからないではないが、もっと全体というか広い視野、長期的な視野にたって物事を議論して進めていったほうがいいと思うんだけど、いかがであろうか? たしかにインターネットって危ない、というのはわかるけどそれをかわしてネット上にある無数の良いほうの部分に注目しないと、日本はどんどん世界の潮流から遅れることになる。

過保護的に子どもたちを保護することが、本当に子どもたちにとっていいことなのか? それともそれらインターネット上にある諸悪の根源から如何にして自らの身を守り、有益な情報を得て、自らのポジショニングを有利に展開させることのほうが重要と考え、子どもたちに指導していくのか? 規制する、国によって管理、制限させてしまう。これって他人任せですよね。

本当ならば親が自ら進んでもっと積極的にインターネットの世界に住み進んでいかないといけないんですけど、それらを自分自身できていないのと、単に一番簡単で一番自分の脳みそを使わないという、他人任せの手段にでるのは、果たして本当に子どもにとっていいことなのか?

親としてみればいいポーズですよ。自分たちはネットの世界が危ないということを本当に認識しているからね、みたいな。それで自分たちでは太刀打ちできないから責任を国に預けてしまうんです。この高市早苗議員なんて周りから騒がれて自分自身で神輿を担ぎ出てきた目出度い人。

親が自信ないんでしょうね。仕事に忙しすぎるという社会の仕組みもあるのでしょう。でもね、子どもにもインターネットについては勝てない、ともう思考停止の状態に陥っているんです。それでね、日本人特有のあの人もいっているし、私のところでも子どもが危ない、といっておけば、という世間体もあるでしょうし、本当に自分自身の体験から物事を喋っている親が果たしているのかどうか?

その影響にあってしまう子どもたちは、ある意味可愛そうですね。

加えて、もう 1 つ。ネットを巡って今、色々な犯罪が起きています。子供が被害者になるケースも随分ありますけど、加害者になってしまうものもありますね。爆弾の作り方をサイトでみて、実際に教室で爆発させてしまった事件がありました。

家出サイトなんていうのもあって、サイトの情報を信じて家出をした 子供が性的暴行の被害者になったり、集められた少女たちが窃盗の共犯をやっていたという事件もありました。犯罪の発生は、社会的コストの増大につながるのは言うに及ばず、このままでは日本の売りである「安心・安全」も棄損されてしまいます。

対日投資推進政策や観光立国政策を考えると安全という価値は手放したくない。その思いもあってまずインターネットの負の側面から子供を守るのが大事だと考えるようになりました。そして負の側面を解決することがむしろ将来的には情報通信の真の発展に寄与する、という結論に至ったわけです。

自業自得のルール

本的にアメリカでは自分が何か間違いを犯した場合の責任の取り方ってやっぱりある程度の範囲で自分に向かってくるんですよ。例えば、ピアスをしている子どもが冬にスノーボードへいったとします。しかし、あまりの寒さのために皮膚が凍傷を起こし、ピアスをつけていた耳の部分が腐ってしまい、その子どもは自分の片耳を切断しなくてはいけない結果になりました。

この場合、日本だったらどのような言い訳がされるんでしょう? ピアスを許している学校の校則が悪い、スキー場に注意書きがされていないのがいけない? でもアメリカでは常識ですけど、半分は自分の責任、つまりその子どもの自業自得なんです(日本でもそうだといいんですけど)。

爆弾を作って爆発をさせてしまった、家出サイトで書いてあった書き込みのように行動を起こしたら性的嫌がらせを受けてしまった。すべてではないにしろ、やはり子どもにも責任があるんですよ(好奇心という誘惑に負けたというのもわかりますけど)。

だけど子どもにはまだ大人と違って情報量も経験も少ないですから、正しい判断ができません。そこで親の出番なんですよ。木の上に立って見ると書いて親という字になります。

親の役割

もインターネットを存分に利用していればそのような被害にあうんですよ。大人だって今の世の中、決して間違いを犯さない、という保障なんてありませんからね。そこで子どもたちに教えるんです、自分もこのような被害にあった、または合いそうだったぞ、みたいなね。

そうすると子どもは大人と情報を共有できたということで、信頼もしますし、素直に大人の意見を聞き入れることができると思うんですよね。そういうプロセスをしないで全部、国に任せます、という態度がよろしくないんじゃないかなぁ、と思うわけです。

鎖国が続いた理由

ぜ日本って鎖国が300年も続いたんでしょうね? きっと楽だったんでしょうね、上から情報も物事も与えられている状態が。世界を知らなくても自分の身の回りの範囲だけの暮らしなんて楽でしょうね。思考停止状態をきっと300年も続けていたのが日本の鎖国なんだと思います。

それとも四方を海に囲まれた日本に住む日本人には、規制でもかけないと勝手に海外へ飛び出してしまう国民性でもあるのでしょうか? ブラジルへの大量移民、まぁ日本が貧しくて親展地に希望を託したというのもわかります。世界中に散らばる日本人女性、結構いるんですよね。

外圧、外国から入ってきたものに日本を変えられる恐さ(管理する側)と何でも輸入して国産化してしまう器用さ(カタカナ、ひらがな)など日本人って本当にどっちを向いているんでしょうか?

話を元に戻しますけど、青少年ネット規制法はあらたな鎖国状態に似ていませんか? 鎖国を受け入れてしまう、思考停止状態の奴隷。またお上が与えてくれる情報や物事を何の疑いもなく受け入れてしまうのでしょうか? 過去にもあるじゃないですか、簡単に受け入れてしまった民主主義とか。しかたがない、しょうがない、って日本人だけの口癖なんでしょうか?

戸惑う牛たち

画「 ファーストフード・ネイション 」をご覧になったことがあるでしょうか? その映画の中で子どもたちが柵を切り裂いて牛たちを逃がそうとする場面があるんですね。しかし柵を切り裂かれて自由への道が目の前に広がっても牛たちは逃げようとしないんです。

まるでどうしていいかわからないようで、戸惑っているようであり、いきなり自由を与えられてどうしていいかわからないでいるようにも見えました。その牛たちをみて僕は日本に住む日本人を連想してしまったんですね。自由になってもきっと奴隷のままでいるほうが楽だ、といって逃げ出さない日本人を容易に想像できてしまったんです。

やっぱり日本は農耕民族、村社会(みんなと一緒が安心する)ですからね。

何でも規制に走る超過保護社会

構内でのアナウンスや運動会の徒競走で着順をつけないなど、自分の頭で思考しない親たちの餌食の子どもたちが日本をひ弱にします。日本という国はこれからこれらの資源を得るために世界の国々と戦っていかなければ飢え死にしてしまうかもしれない時代に入ったんですけど、超過保護社会で育った子どもにこれらの戦いを勝ち抜く気力が果たしてあるのか?

日本特有の一人で考えることができない仕組みに、他人から与えられるのを待っている仕組み。これを自ら断ち切る勇気が必要なんですけど。

狼の誇り

落合信彦著「狼たちへの伝言」の最初の部分に狼と犬の寓話が出てきます。

主人公は一匹の狼。厳しい冬、腹をすかせたその狼が、一匹の犬と出会う。やせ衰え、いまにも倒れそうな狼に、犬は「オレについてくれば、暖かい寝ぐらも、うまい餌も食える」といって、同行させる。しばらく歩いて、狼は、犬の首にはりついている首輪に気がついた。

「その輪はなんだい?」犬は答えた。「これをつけているだけで、人間がうまい食い物をたらふく食わせえてくれるのさ」その答えを聞いた狼は、黙って、もと来た道を、とぼとぼと帰っていった。

オレは、この狼の持つ“誇り”に大いに共感している。オリに入れられ、首輪をはめられて他人に媚びてまで生きることを拒否するその姿勢に、尊厳すら感じる。

ところが、ひるがえってこの国を見れば、首輪をつけられることに喜々としている人間がなんと多いことか。金、地位、安定した生活、そんなものにどっぷりと漬かっている人間が、なんと多いことか。他人に平気でぶら下がる人間がなんとおおいことか。

“狼”であろうとするなら、まず、そこから考えてほしい。落合信彦のコピーではなく、自分の頭でものごとを考えていける人間になってほしいのだ。この世の中に絶対なものなどひとつもありはしない。自分の頭で、経験で、自分なりの価値観をつくりあげるのだ。

あなたの生きる姿勢はどちら?

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