日本人がリーダーシップを発揮して少子高齢化社会でも幸せになる仕組みづくり(4)


リーダーシップ

日本人がリーダーシップを発揮して少子高齢化社会でも幸せになる仕組みづくり(4)

めることから始めましょう、との考えを( 日本人がリーダーシップを発揮して少子高齢化社会でも幸せになる仕組みづくり(1) )で示し、( 日本人がリーダーシップを発揮して少子高齢化社会でも幸せになる仕組みづくり(2) )では危機的状況の行く末のイメージを日本人一人一人が共有するべきである、との考察を行い、( 日本人がリーダーシップを発揮して少子高齢化社会でも幸せになる仕組みづくり(3) )で「リーダーシップ総量不足」を解決するため、日本人一人一人がリーダーシップを発揮する必要があることを強調しました。

今回の最終稿ではリーダーシップ発揮初心者を暖かく見守る試み、リーダーを育んでいくために必要な周囲からの、特にリーダーシップ発揮経験者の広く寛容な理解する姿勢に関する記述を伊賀泰代女史著「採用基準」から抜粋して、私なりの考察をまとめてみることにします。

  • リーダーの役目、決断すること
  • 説明責任というコミュニケーション

リーダーの役目、決断すること

決めることが出来ないのは、責任をとるのが怖いからでしょう。決断を下す人には、常に結果責任が問われます。それが怖い人はいつまでも決断を引き延ばします。そして彼らが決断をしない理由(言い訳)はいつも同じです。それは、「十分な検討時間がなかった」と、「必要な情報が揃っていない」の二つです。

しかし過去のことならともかく、未来のことに関して十分な情報が揃うことはありません。リーダーの役目は過去の情報を整理してまとめることではなく、未来に向けて決断をすることですから、常に不十分な情報しか存在しない中で、決断することを求められます。「情報がまだ足りないので、決断はもう少し後にする」と言っていたら、いつまでも決断できません。

さらに言えば十分な情報が揃っているのならリーダーでなくても決断は出来ます。リーダーの役目は「情報も時間も不十分な中で決断すること」なのです。そのリスクを誰もとらず、「会議で決まったことだから」などと言っているから大変な結果が起こっても誰も責任をとらない事態が発生するのです。

ある米国企業の経営者が会議の席上で「A bad decision is better than no decision」と発言したのを聞いた時は、そのとおりだと感じるとともに、それを経営トップが会議で公言することに驚きも覚えました。これはまさに、決めることがリーダーの責務であると理解している人の言葉です。「ベストな結論が見つかるまで検討を続けるべきだ」などと言っていては、お話になりません。

なぜベストな決断でなくても決めることが重要なのか。一つの理由は何かを決断すると問題を浮かび上がらせることができるからです。リーダー経験の無い人たちは問題が起こると直ぐ、「決断が間違っていたのではないか」、「もっと慎重に検討すべきだった」などと誹り、時には一度決断したことを撤回すべきだとさえ言い出します。

何とかして結果責任に繋がる「決める」という行為を避けたがるのです。しかしリーダーが決断するときは、「これで万事がうまくいく」という結論が出た段階ではありません。問題は山積みだが今が決断をして前に進むべきタイミングであると考えて決断するのです。したがって決断の後に問題が噴出するのは想定内です。

むしろ問題を明らかにし、何を改善すべきかを浮き彫りにするために決断することさえあります。問題点が洗い出せれば、一歩前に進むことが出来ます。この点が理解できず、何に付けても「やっぱり拙速だった。もっと議論してから決めるべきだったのだ」と言っている人にも、リーダーシップ・ポテンシャルはありません。

もわかっていない状態でもあえて決断することによって、逆に前に進むことが出来る、という教えは眼から鱗でした。なるほど、エジソンは成功するまでに1000回失敗している、という見方ではなく、1000回の問題箇所を発見する作業を行った末に成功した、と見るべきなのでしょう。この方法を試してみよう、と決断したから問題箇所を発見したのです。

決断できない人は問題が起こることが問題だと捉えているからその現象を起こさないようにする、つまり決断しないわけです。問題箇所を発見すること、という捉え方をすれば問題はむしろ歓迎されるべき現象となり得ます。一つ一つ問題が存在しない状況に近づいているからです。問題が発見されたらどうするか? 褒めるのです。大きなコストを発生させる可能性のある問題を発見できたことは、我々を効率的に行うことが出来るポジションに導いてくれた、有難う、という具合に。

説明責任というコミュニケーション

もう一つリーダーの大切な仕事が、コミュニケーションです。明示的という意味で言葉の力は重要です。家族など極めて近しい人を少人数だけ率いるのなら、言葉ではなく態度で示すなり、背中で教えることも可能でしょう。しかし一定人数以上のい組織を率いる場合や、多様な価値感を持つ人が混在している場合、また、成果を出すことが極めて困難な状況では、言葉によって人を動かすことは必須となります。

黙っていても伝わるとか、わかってくれるはず、は通用しません。問題が発生した場合も、問題の原因や対処方法の選択肢、更に、その中からなぜこの案を選んだのかという判断の根拠も、言葉で説明する必要があります。これが説明責任と呼ばれるものです。

日本の組織や企業は、長い間、極めて同質的な人だけで構成されていたため、説明責任や言葉の力を軽視しがちです。今は日本人以外の人、仕事に対する考え方が異なる人も一つの組織に混在しています。そういった人々を束ね、高い目標に向かって進ませるには、なぜそれが必要なのか、他にどんな選択肢があったのか、などについて、論理的かつ明示的に伝える必要があります。

言わなくてもわかっているはずと考え、伝えることを軽視する人の大半は、多様性の在るチームを率いた経験がありません。もしくは、自分のチームメンバーが多様であるということに気がついていません。自分と同じモノを見れば、他の人もすべて同じように感じているはずだと考えるのです。

はこの説明責任というのもアメリカ社会の特徴である、という認識を持っています。( トヨタ自動車問題(大規模リコール)、アメリカからの視点 )でも書きましたけど豊田章男社長はアメリカ議会に召喚され、大規模リコール問題の説明責任を果たすよう要求されました。

問題を犯してしまうのは人間だから当たり前なんです。そこが寛容的であるというかアメリカ社会はもっと違う角度から捉えているような気がするんです。つまり二度と同じ過ちを他人が犯さないように問題発生が起こったまでの思考過程を知りたがるような気がするのです。これが説明責任です。問題の原因や対処方法の選択肢、更にその中からなぜこの案を選んだのかという判断の根拠。

そしてその説明責任によって書き起こされた様々な思考過程を、様々な専門家によって分析させる、社会学者だったり、犯罪心理学者だったり、行動経済学者だったり、と。それが日本社会の場合は、論理的に議論を構築するというよりも、一方的にその個人を責める、という行為に集中しそうな気がするんです。村八分というニュアンスかなぁ・・・

利害が一致しない問題を議論、解決するための方向を定めていく、というプロセスは今後日本の至るところで発生する可能性があります。「フラット化する世界」の著者、トーマス・フリードマンはグローバリゼーション3.0の現代、個人がグローバルに栄えるか、せめて生き残れる方法を考えなければならないと説いています。

国がグローバルに栄えたグローバリゼーション1.0。企業がグローバルに栄えたグローバリゼーション2.0。「公助」は当てにすることできなくなり、個々人がリーダーシップを発揮してグローバル環境の中でサバイバルしていく必要があるのです。どの分野でもいいので、リーダーシップを発揮して、その分野に貢献していこう、という気持ちが湧いてくることを多くの日本人に期待したいです。高齢化社会で発生した様々な社会問題、よく日本人は解決したなぁ、と言われたいものです。

, , ,

Powered by WordPress. Designed by WooThemes