決断力 – 羽生善治、凛々しい日本人を取り戻すために


決断力 – 羽生善治、凛々しい日本人を取り戻すために

生さんはよく将棋の勝負場面という雰囲気を剣との戦いぶりに例えることがある。「決断力」本文中にも何箇所かそれらの表現が使われているんだけど、僕としてはそのように羽生さんが用いる剣との戦いぶり将棋場面表現法に出会ったとき、あぁやっぱりという思いがした。

それまでほとんど将棋に対するイメージがなかったところ、今年の正月元旦にアメリカのTVJapanで放送されたNHKスペシャル「100年インタビュー」で羽生さんとの対談模様を鑑賞する。

その時に羽生さんが将棋という戦いの場面を解説するときにイメージとして僕の頭に浮かんできたのが正に真剣勝負の戦いのようであると。剣との戦いのことだからね!

読んでいれば、相手の刀がかすめても怖くない。かなり危険だと判断しても、私は、踏み込んで決断をするほうだと思う。見た目にはかなり危険でも、読み切っていれば怖くはない。剣豪の勝負でも、お互いの斬り合いで、相手の刀の切っ先が鼻先1センチのところをかすめていっても、読み切っていれば大丈夫だ。

逆に相手に何もさせたくないからと距離を十分に置いていると、相手が鋭く踏み込んできたときに受けに回ってしまう。逆転を許すことになる。将棋では、自分から踏む込むことは勝負を決める大きな要素である。私は将棋の醍醐味はそういうところだと思っている。戦って、こちらも傷を負うけれど、結果として僅かに勝っていればいいのだと・・・。(「決断力」参照)

馬遼太郎氏の「竜馬が行く」を読んだことがある人なら想像できると思うけど、その本の中で何度も出てくる浪人や武士同士の真剣勝負、殺し合いなる場面を将棋という戦いもその環境と同じぐらいの恐ろしさではないか、と感じたんだ。

だから羽生善治氏の「決断力」を読んで羽生さん自身がそのように将棋を表現しているのを発見して、あぁやっぱり棋士、羽生善治もそのように感じていたのかぁ、と思って嬉しくなった。

明治維新の頃の日本人に日本社会

代の日本社会及び日本人のひ弱さというか精神的脆さ、邪悪さ加減を嘆き、比較される対象として用いられることの多い時代、明治維新前後の日本社会を振り返るとき、凛々しいとか潔いとかいう表現を用いて当時の日本人を特徴付けることが多いように感じる。

まっ大雑把に書くけど、江戸時代の武士社会に存在していた武士道というような潔い精神を持った日本人社会から、戦前の昭和初期頃、さだまさしさんが「昭和初期頃の日本人を表現した小説を読むと本当、日本人ってきれいたよねぇ」っていうような表現をしていたと思うんだけど、凛々しい日本人社会が存在していた頃までの日本を取り戻すためにはどうしたらいいのだろうか?

金、金、金、というお金第一的発想からアメリカに何でも追従、お願いしますよ合衆国大統領さん、とりあえずお金は出します、的なボンボン息子的発想、自分さえ良ければ他人なんて関係ないぜ、的排他主義的発想に貧乏染みた競争社会、と突き詰めていくとどうも物質的にはとても豊かになった日本なんだけど、精神的に貧しくなったように感じるんだよね。

物質的には潔い、凛々しかったころの日本社会よりも便利で豊かになったはずなんだけど、その社会に生きる日本人はなんか精神的に退化してしまったというか、脆くなったように感じるのはどうしてだろう。極端な結論に飛ぶけど、もしかしたら多くの日本人が将棋を指すということがキーポイントになるかもしれないとさえ思えてくる。

文武両道

を戦わせるのは実際のところ非現実的だし、例えば剣道はじめ道がつくものはどれでもいいから日本人としての心の作法を身につけさせるためにも、義務教育の一環として取り入れてはどうだろうか?

柔道でも剣道でも合気道でも空手道でもいいし、茶道でも書道でも華道でもいいから初段というところまで一人一人が取得できるようにさせる。できれば文武両道という意味で、動と静の部分、両方を身につけさせたい。そして静の分野では茶道、書道、華道のほかに将棋を加える。

これらの作法を習っていく過程で日本社会が含む豊かな知恵というものを体感することが出来るであろうし、落ち着きのある精神的に満ち足りた日本人的気質を育むことの手助けになると思う。

正座の仕方

は高校生の時、体育の授業で柔道を、ニューヨークに来てからの一時期、空手(誠道空手)を習っていた。今でも思い出すことができるが、柔道の時間に習った正座の仕方の意味。必ず座る際には左足から膝をおって地面につけるというもの。

そうすることで半身の姿勢になっても、危険なときにはいつでも腰に差した刀を抜くことができるように、ということであった。もちろん、正座の姿勢から立つときには右足から前に出して半身の姿勢に。

将棋の中の知恵、羽生善治氏

「決断力」を読んだ際に、なるほど、と感じた部分、大事なことだなぁ、と思った部分のいくつかを紹介してみよう。

相手に手を渡す。指し手が見えない、つまり「これがよさそうだ」という手が一つも見えない場面も非常に多い。そういう時は、どうするか? 将棋は、お互いに一手ずつ手を動かしていき、指していく。だから、自分が指した瞬間には自分の力は消えて、他力になってしまう。

そうなったら、自分ではもうどうすることもできない。相手の選択に「自由にしてください」と身を委ねることになる。そこで、その他力を逆手にとる。つまり、できるだけ可能性を広げて、自分にとってマイナスにならないようにうまく相手に手を渡すのだ。

中略・・・

大山康晴先生は、「相手に手を渡す」のが上手で、意図的に複雑な局面を作り出して相手の致命的なミスを誘導してしまうのが非常に得意であった。自分の力ではなく相手の力も利用して技をかける、だから強かった。(「決断力」参照)

のイメージが強い将棋においてどうして剣との戦い、つまり動のイメージが湧いてくるかという理由は相手と対戦するという空気、戦う場面で発生する相手との間合いというか気の流れ、場の雰囲気なるものがそうさせているのかなぁ、と想像する。相手に手を渡す、とは正に相手の勢い、技、相手の気を利用してこちらが技を仕掛ける剣道、柔道、空手道と一緒である。

何もないところから創造していく喜び、祝祭の時間

対戦の中で、相手に「アイデア」を引き出してもらう

棋士は指し手に自分を表現する。音楽家が音を通じ、画家が線や色彩によって自己を表現するのと同じだ。小説家が文章を書くのにも似ている。20枚の駒を自分の手足のように使い、自分のイメージする理想の将棋を創り上げていく。ただ、将棋は2人で指すものなので、相手との駆け引きの中で自分を表現していく。その意味では、相手は敵であると同時に作品の共同制作者であり、自分の個性を引き出してくれる人ともいえる。

未知の局面は偶然に現れるものではない。自分と相手が一手一手を決断していく過程で現れるものだ。自分のアイデアは案外決まっているので、対戦の中で、相手にいろいろ引き出してもらうことも多い。対局中に「次のアイデア」が浮かぶこともある。「次はこうやろう」というアイデアがどんどんストックされていくのだ。

中略・・・

慣れていない、感覚でとらえられない局面には、たとえ失敗があったとしても、挑戦の楽しさがある。その中でさまざまな発見をし、充実感が持てる。将棋に限らず、何事でも発見が続くことが、楽しさ、面白さ、幸せを継続させてくれると思っている。(「決断力」参照)

上龍対談集「存在の耐えがたきサルサ」の中で京都大学名誉教授河合隼雄氏と夢について語っている部分を思い出した。イメージしたものを表現していく手段をもっている人は精神が充実しているのかもしれない。たとえそれが自己満足という範囲で治まっているとしても金銭的なインセンティブも働くだろうが満たされたい欲求があるとすれば内への欲求ではないだろうか?

世間が、世界がそれをどのように判断してくれるのか、ということは二の次で、興味のあることといえば自分自身、作品がどのように評価され、どのような批判を受けようともそれを受け入れることは、このような見方もあるのだなぁ、と客観的になれればフィードバックは次への作品へのステップアップにも繋がる。

以下、村上龍氏と河合隼雄氏の対談から

河合:夢というのは個人的な祝祭かもしれませんね。夢で祭りが可能なんです。お祭りというのはどこかぶち壊したりしないと本当は面白くないわけですが、現実ではやれないことも夢では可能なんです。だから夢を上手に見ている人は、祝祭が出来ているんですね。今の社会でなんとか祭りと名の付くものは全部偽者です。結婚式とか葬式とか、儀礼や儀式もそうです。

村上:なんだか企業の運動会みたいなものばっかりですものね。

河合:社会からそれらを消すのが近代だったわけです。

村上:近代化を果たした現在、もう一回祭りをやれとシステムに要求するのではなく、個人で祝祭を何とか準備しなければいけないんですね。さもなきゃキレるしかないんですね。

河合:それを一番出来るのは夢です。

村上:いまほど人間の精神が変わることが要求されている時代はないと思うんです。さっきの普通の女子高生じゃないですけど、トラウマも何もなくて、ロボットみたいに自分をコントロールして一生を大過なく生きていくことはどんどん難しくなっていると思うんです。

河合:一生の間に一回か二回は誰にでも危機が来ますね。それがなくて一生幸せに行く人も稀にいますが、その人のために周りがどんなに苦労するか。そうでない限りは、どこかで危機は来ますよ。

村上:僕は今はいくらでも小説が書ける時代だと思うんです。これだけ精神がプレッシャーを受けて多くの人がコミュニケーションの不可能性に気付き始めている。ただ日本近代文学の方法ではもう書けないですけどね。

河合:逆にそれだけ難しいとも言えますよ。下手をすると現実が小説の先を行ってしまいますから。

村上:さっき言ったように、会話が機能しないというようなこともある。でも、言葉を持っていない人がこれだけいろんなサインを送ってきていますからね。それを小説家が翻訳して物語に織り込む作業というものがこれほど必要とされているときもないんじゃないかと思うこともあります。もちろん簡単ではありませんが。

フランス人やイタリア人の余裕のある態度

ログを書く国民がこんなにもたくさんいる日本人というのもわかる気がする。( 世界中のブログで使われている言語は日本語が一番多い  )日本人の多くは飢えている。何に飢えているのか? 他人からの、社会からのアテンションであろう。多くの犯罪者が語っているではないか、自分は誰からも相手にされていない、と。

ブログやSNSの日記で投稿数が世界中の中で一番多いと言われる日本人。もしかしらたらそれらの環境があるお陰で多くの日本人が発狂しないですんでいるのかもしれない。自分が精神的に満たされていることは大事だ。精神的に満足していれば他人と、他国と自分を比較したりしない。比較してもうらやましがらない!

アメリカに来たばかりの頃、旅行先で出会ったフランス人やイタリア人。一緒に滞在している中、僕は彼らの行動を観察するともなく眺めていたのだがどうしてこいつらはこんなに余裕なんだろう、ということがいつも頭をよぎった。リラックスしているんだよ!

多分、国が豊かなんだろうと思った。経済的に世界で抜け出るようになってもその国で暮らす日本人はちっとも豊かさを感じることができない、といわれる理由もこのあたりにありそうだ。

美しい田舎の景色、美しい女性たち、美味しい料理にワイン、サッカーにフェラーリーにオペラ、美しいフランス語に、とこんだけ美しいものに囲まれて生活していたらそれだけで満足してしまうものなのかもしれない。だから他国と、他人と比較などしない。それがリラックスした態度を生むから余裕があるように見える。

日本人も物質的に豊かになった今、自分の周りにある日本文化の素晴らしさに気付き、それに感謝、触れ合う毎日を送ることができれば、周囲から日本は豊かで羨ましいね、と言われるようになるかもしれない。

自発的に何かを始めることが苦にならない社会

集中力だけをとりだして養うことはできない

「子どもの集中力を高めるにはどうしたらいいですか?」とよく聞かれるが、私は、集中力だけを取り出して養うのは難しいと思う。「集中しろ!」といって出てくるものではない。

子どもは、好きなことなら時間がたつのも忘れてやり続けることができる。本当に夢中になったら黙っていても集中するのだ。集中力がある子に育てようとするのではなく、本当に好きなこと、興味を持てること、打ち込めるものが見つけられる環境を与えてやることが大切だ。

子どもに限ったことではない。誰でも、これまでに興味を持って夢中になったものがあるだろう。遊びでもゲームでも何でもいい。そのときの感覚であり、充実感だ。それを思い出せば、集中力のノウハウはわかるはずだ。逆に、興味のないことには集中できない。誰でも、自分が集中できる型を自然に作っているはずだ。

何かに興味を持ち、それを好きになって打ち込むことは、集中力だけでなく、思考力や創造力を養うことにも繋がると思っている。(「決断力」参照)

生さんが「決断力」の中で語っているのだが、将棋を習い始めてから考えることが苦痛でなくなったと。集中力とか思考力、創造力とは後の副産物なんだろうと思う。つまり、何かをやっていることによって、やり続けていることによって、気がついたらそれらの力、集中力や思考力、創造力が一緒になって培われていた、と。

好きなものが見つからない、何をやっていいかわからない、と多くの日本人が発しているけど、もしかしら揚げ足取り社会日本が、自発的に何かをやってみよう、という空気の芽を潰してしまっている性ではないだろうか?

大人に限らず社会全体が、個人が自発的に何かを始めたときはチャンスだとばかりに大きな心を持ってサポートしてあげる雰囲気を育んでいかないと日本人に日本人社会は成長していかない。

B’zのギターリスト、松本さんの言葉である。曰く、

俺たち何でもそうなんだけど、違うんじゃない!  っていうのが一番誤解の元になっちゃうから、まずはみんな思うとおりにやればいいじゃん、と。これはでも、妥協とは違うんだよね。

それでね、得したこといっぱいあるんですよ、いままで。うそー、とおもってやってみたら、それがヒット曲になったとか、そういうことあるんですよ。なんで、まずそれが一番いけないですよね、最初の時点で、いや、これはないな、って言って、撥ねちゃうの。だからそれはもうずっと続けてやってきたことですね、今まで。

ギターなんかでもそうなんだけど、思い込みの違いだと思うよ。僕が音楽の才能だとか、ギターのそういう才能、とかっていうよりも、人よりそれがあったということじゃなくて、ほかの人よりも相当好きだったというか好きだということが、やっぱり原動力になるんじゃないですかねぇ。だから誰にも負けないぐらいの好きなものを見つけることだよね。(  メガヒットの秘密(20年目のB’z)- NHKスペシャルを見ての感想 )

何歳になってもチャレンジできる社会、一流大学、一流会社へと就職していかないと人生で成功者になれないという勘違いしたプレッシャー。こうしたものが醸成されてきたりなくなってきたときに初めて日本人はリラックスして生きているのかもしれない。

実戦には何倍もの「学び」がある

今は、周りに流されやすい時代だ。情報の量が増えすぎ、それへの依存度がどうしても高くなってしまう。高くなると、イメージを思い浮かべたり、ものを創るといった力が弱まってしまいがちだ。

そんな中で、自分なりのスタイルや信念を持つことが、非常に大事になってきているのではないだろうか。それがないと根無し草と同じ、流されるだけになる。自分なりの信念やスタイルを持つことは、物事を推し進め、深めていくためのキーなのだ。

中略・・・

ビジネスや会社経営でも同じだろうが、一回でも実践してみると、頭の中だけで考えていたことの何倍もの「学び」がある。理解度が深まることで、頭の中が整理され、アイデアが浮かびやすくなる。新しい道も開けてくるだろう。(「決断力」参照)

あなたの自分なりのスタイル、信念はなんですか?

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