目指せ第2外国語取得、その必要性


ロサンゼルス

目指せ第2外国語取得、その必要性

くこれからの勝ち組と負け組み、みたいな表現を聞くことが多くなったが勝ち組にあって負け組みにないものといったらなんであろう? 人によって意見はいろいろと異なると思うが、僕が一つ確信しているのは絶対に第2外国語を身に着けているかどうかだと思う。

英語が一般的だが日本人にとってこれからは中国語でもかまわないかもしれない。しかし、やはりいくら大中華経済圏ができるといっても英語が世界中で一番使われている言語であることは確かである。ましてやIT関係になってくると英語は必須。

自分でもプログラミングの勉強をしているので感じるのだが、英語がわからなかったら一般のコンピューターの知識をはじめプログラミング言語などの勉強は非常に苦痛であったに違いない。今では英語の表現をそのまま英語の感覚で捉えることができるが、もし英語ができなかったとすればまずその単語の意味から調べ、日本語で納得してからコンピューター用語を理解していったと思うからだ。そのためにはものすごい労力と時間が必要になる。

だが英語をある程度マスターしてくるとそのほかにも得点が付いてくる。まず英語を勉強してからラテン語のどれかに入っていくときにかなり楽である。どういうことかというと、日本語から英語の勉強をしてきた段階でローマ字に脳みそがなれているのが大きい。日本語から英語に変換したときの苦労があまりにも大変なため、英語からラテン語の例えばスペイン語を勉強し始めたときの苦痛は遥かに軽い。

英語とスペイン語の文法は細かいところを除けばだいたい似ている。単語とかを増やして文章をたくさん読みこなしてスペイン語のリズムをつかんでしまえば、日本語から英語の時に努力したみたいな労力はあまり必要ないかもしれない。

考えてみるとわかると思うが、日本人が中国語の読み書きがローマ字を母国語とする国から来た人たちに比べてアドバンテージを持っているのと同じだ。日本人が韓国語を習う場合でも同じらしい。文法が一緒だし単語の発音もよく似ている。喋るリズムも似ているのでヒアリングなどは英語よりも慣れるのが早いと思う。

これからの日本社会は否が応でも海外との交流がなくては成り立たない。その上で海外へ出て行くことができる人とできない人に分かれていく。英語の勉強ばかりしていたら日本語がおろそかになるのではないか、というよな議論には意味がないと思う。前のエッセイのところでも述べたが日本語の国語力がないと第2外国語をマスターすることができない。

単一民族社会の日本語が通じる日本社会に住み、同じようなバックグラウンドで育ってきた日本人同士の社会。その社会の枠組みの中で住んでいる限り、第2外国語取得の必要性はあまりわからないかもしれない。

あまりわからない、そのような必要性を感じない人はよく言われる危機感がないのだろうか? では危機感とはどういう意味かわからない人には、どのように説明すればいいのだろうか? サバイバル、生き抜いていくための必要なスキルとでも言えば、感じてくれるのだろうか?

いや、それともその本人が外的要因によって住んでいる環境がドラスティックに変わり、自分が負け組みに属していると悟ったときであろうか? それでもその人の周りの多数が自分と同じ負け組みに属しているならば、その中で他人も一緒という安心感を得てしまうだろう。

それよりもその負け組みの人たちが、無気力感に包まれてしまうほうが危険である。どうせ努力しても駄目だ、などと思って周りの同じレベルの人間と行動を共にしているようでは、日本の社会にとってプラスにならない。そういつ奴らは自分ではなく他人や他のものもせいにして、溜まった負のエネルギーをどこへ向けるのだろう? 自発的に本人から行動を起こさせるには、どうしたらいいのだろうか?

メキシコ人

サンゼルスとニューヨークに住んでいるメキシコ人は違う目つきをしている。ロサンゼルスに住んでいるメキシコ人には底抜けの明るさを感じる。貧乏だろうが学歴がなかろうが、カリフォルニアの陽光と気候に包まれて生活していればそれだけで幸せになれる。目の奥底に感じるものは決して負のエネルギーではなく楽天的なものだ。

その太陽の輝きの下では誰もがその有難さを受けることができる。気持ちのいい天気の下での生活が与える人間の精神的、身体的な影響は計り知れない。実際にそのような天候を経験したものにしかわからないだろう。ロサンゼルスに住んでいれば、太陽の陽光という快楽は貧乏から金持ちまで、すべてのひとに平等に与えられる。

それに比べてニューヨークに住んでいるメキシコ人の目はどうしてこの様に瞳の奥が暗いのだろう。死んでいる。輝きが見えないというか感じないし、暗い負のエネルギーに包まれてしまっている。何か諦めてしまっている表情とでも言おうか。

ニューヨークの厳しい社会の中で生きる彼らは、自分たちの前に立ちそびえるどうしようもない壁を感じてしまったにちがいない。自分が社会の底辺から上へ上がるのに、その立ちはだかる壁はとても越えられそうにない。

その壁を乗り越えるには、自分を教育することが必要。その壁を乗り越えない限りニューヨークでは快楽を得ることができない。ここでは貧乏でもロサンゼルスでは与えられた太陽の輝きは、少なすぎる。ロサンゼルスと違ってニューヨークで楽しんで生きていくためには実力が必要なのだ。そのニューヨークのメキシコ人を見る限り、壁を乗り越えることを諦めてしまっている。だから彼らの表情やその目が沈んでいるように見えるのかもしれない。

日本の社会もこのメキシコ人たちのように分かれてしまうのだろうか? 日本の外へ出て行ける人間と、日本の内に閉じこもっている人間に。外へ出て行くことができないのかもしれない。外へ出て行くためには、日本語以外の語学の習得が必要だ。外へ出て行ける人間には新しくて広い世界が待っている。大変かもしれないが興奮や発見、刺激などで満ちている生活があるかもしれない。

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