相撲協会更生へ向けてその1、指導者に問われるもの


世界誠道空手道連盟誠道塾会長中村忠

相撲協会更生へ向けてその1、指導者に問われるもの

相撲名古屋場所の中継がないのでさっぱり白鵬の連勝記録振りにもいささか反応が鈍くなる。力士関係者による大相撲野球賭博問題などの影響で大相撲中継中止を決定したようだがニュースでダイジェストを見ても迫力が欠けるというか15日間を通しての流れもつかめぬまま、何ともつまらない場所になりそう。

毎日大相撲中継を追っていれば中盤を過ぎた辺りで優勝候補者が選別されつつあり、という状況が生まれ日が進むにつれて見ている側にも緊張感が伝わってくるあの喜び。本当に楽しみなのは普段ならば今週の中継なんだけど、まったくがっかりである。

応援していた琴光喜も解雇。これは何とかならないだろうか? 気の優しそうな琴光喜は今回の事件の被害者というか犠牲者だね! 見せしめだよ、仲間内に対する脅しと世間に対するけじめ。みっともないというか情けない!

人間完璧に、というまでにはいかないまでもその人の生き様というか生きる姿勢、哲学なるものがその人の芯を創るもので、ぶれないその精神が後を追うものに信頼感を抱かせ、困難が道行くところに現れようとも回りの人たちなどによって支えられ前に進んでいく。

この人の考え方凄いなぁという人物、世界誠道空手道連盟誠道塾会長の中村忠氏著書「人間空手」からところどころ抜粋して、相撲協会更生へ向けてのメッセージを交えながら参考にしていただければと思う。“国技を潰すきか?”とまで言い切った横綱白鵬へ礼を込めて・・・空手の部分を大相撲、格闘技などの単語に置き換えて読んでみてください!

指導者に問われるもの

近年の空手ブームのお陰だろうが、昔から見たら考えられないような安易な動機で空手の先生になろうとする人が増えている。実際、現在では空手の指導者になること自体が実に簡単になってきている。格闘技ブームの影響で入門者は増える一方である。当然ながら指導者は不足する。そんなことで、ちょっと大会でいい成績を残しさえすれば、すぐ後輩を指導してみないかと声がかかるような風潮があるからだ。

けれどもここで注意しなければならないことは、空手を教える上で一番大切なことは指導者となる人間のものの考え方、人格であるということだ。強い選手必ずしもよき指導者ならずである。

何かの大会でチャンピオンになったからといって、優れた指導者になれるわけではない。強い選手を育てることができるからといって、最高の指導者だとは限らない。世の中でチャンピオンといわれる人たちがみんな、人に恥じない人生を送り、後々社会に貢献するような立派なことをしているかどうかを考えれば明白であろう。

仮に、大会に勝つことだけしか頭にない、体力と技術はあるが、人間としての素養のない人間が指導者になったときのことを考えよう。そうした人間はたいてい、「最強の空手家だ」とか「抜群の強さを持つ」とかちやほやされて、ただでさえ足らない自制心がものの見事に雲散霧消し、己を見失い自信過剰に陥っているだろう。

このような人間が指導者になった場合、確かにある程度の選手や強い後輩を育てることができるかもしれない。しかし、彼らに教えられることは所詮体力的あるいは技術的なことだけであるから、育てられる選手は結局人間的にアンバランスなのである。人間として欠陥のある空手家を生むことに指導者の役割があるのではないはずだ。

い力士、必ずしもよき親方ならずかな? 相撲の世界で大関、横綱と言われる人たちが皆、人に恥じない人生を送り後々社会に貢献するような立派なことをしているだろうか? 人間的にアンバランスだと甘い誘惑に陥りやすい。自制心というのがキーワードかな、今の世の中。

社会教育、道徳教育

日本にいないからかえって言えるのかもしれないが、現在のような安易な指導法、指導者選びを続けていったら、東洋の心を大切にすべき空手が、競技化され、陳腐化され、やがて誰からも相手にされなくなり、呆れて捨てられてしまうのではないだろうか。そうして若い粗野な、あまり教養もないような力まかせの連中だけが、ごく内輪だけで、相変わらず「俺がチャンピオンだ」「いや俺が最強だ」とやっている時代がきっとくるだろう。

とくに考えなければいけないのは、指導者たちがいつまでも大会重視の姿勢をとっていることだ。大会に出て、一つでも多く勝って順位を上げること、それだけが指導する上での目標であるというのは、あまりにも無惨ではないか。

私は空手のトーナメントを批判しているのではない。ある程度の大会、試合は空手家が技や精神を磨くのに必要である。誠道塾においても、積極的に大会に参加するよう生徒たちに奨励しているのは、すでに述べたとおりだ。

大会に出場することによって得ることもたくさんある。そうではなく、大会だけが空手の生命であるかのように宣伝する風潮がいけないと言っているのである。大会に勝ったから、優勝者が最高の空手家のように言われる、逆に負けたならば、空手家として二流であるように蔑まれる、もう少し冷静に、自分たちのやっている空手について考えられないかと思うのである。

例えば剣道の指導者のように、合気道の指導者のように、空手を指導する人たちも、もう少し精神的なものを大切にしてみればいいのである。たいして難しいことではない。強者至上主義に洗脳された頭を切り換え、それに合った指導教程を整えればいいのである。空手においても、重要なのはプログラムである。それで道場に集まる人の層がガラッと変わってくる。誠道塾の歴史がそれを証明している。

最近は誰も言わなくなってしまったが、空手には本来社会教育としての役割がある。空手の修業とは、すなわち道徳教育である。家庭教育や学校教育からそうした大事なものが失われつつある現在、道場において、道徳的なことを教える意義を指導者たちはもう一度確認しなければならない。そこに空手を教える指導者の本当の役割がある。

が横綱だ、優勝者だ、一番強いんだ、を俺が偉いんだ、凄いんだ、に履き違えて相撲界を去っていった元横綱朝青龍。相撲の世界に道徳教育が存在するの分からないが、今回の事件を踏まえてこのようなことにも取り組んでいく必要があるのではないだろうか? 剣道、柔道、合気道、空手道、相撲道、と道という概念、哲学、どのような姿勢で取り組んでいくのかという精神的な柱がないから世間から尊敬されないのだと思う。

指導者は教育者

もちろん、指導者といえど神様ではない。指導者なる人がすべて、最初から立派な人格者であるわけはないし、またすべての指導者が同じように最高の人間的資質をもっているわけでもない。間違えてほしくないのは、立派な人間だから指導者になれるのではなく、立派な人間になりたいと願い、努力するから、指導者たり得るのだということだ。

指導者も努力をしなければならない。というより、空手に携わる人間の中で一番努力をしなければならないのが指導者なのだ。

その時に初めて、空手の指導者は教育者たり得る。先にも書いたように、空手は社会教育の中の一つである。にも関わらず、これまで空手のもつ教育的な意義が一顧だにされなかったのは、ひとえに指導者たちが教育者としての資質と自覚を欠いていたためである。空手は社会教育であり、指導者は教育者である。すべての指導者がこの事実に気付いたとき、初めて空手は新しい隆盛の期を迎えるのだ。

派な人間になりたいと願い、努力するから指導者たり得るのだというところは現代社会、日本の至るところで応用できるのではないだろうか? スポーツ分野に限ったことではなくすべての教育機関でもこのような志は参考になるであろうし、もっと身近なところでいったら家庭内で親が子供に果たす役割にも充分活用し得る。

指導者は教育者であるとするならば家庭での親は子に対する教育者であるべきで、道を導くというか方向性を指すという仕事が尊いものだとする認識が生まれないのはそれに対する意識の欠如が原因であるのかもしれない。

格闘技ブーム

フルコンタクトの大会が増えていることに関しては、もう少し述べておきたいことがある。「最強の空手」「格闘技空手」などという謳い文句とともに増えたこの種の大会では、幸いにして今までのところまだ大きなアクシデントは起こっていない。が、この状態が続けば、心配が現実になるのは時間の問題であるように思える。だいたいグローブをつけて殴りあうボクシングでさえ、これまでに何人もの死者が出ているのである。防具もつけずに相手の急所を狙うような戦い方は、あまりにも危険が大きすぎる。

いったん空手の突きがまともに胸に入ったら、心臓発作を起こすこともあるし、蹴り方ひとつで相手の生死を左右することだってあるのだ。それが空手というものである。

考えるだけで恐ろしいのは、万一そうした大会で運悪く死者が出たときだ。そのときに、空手の評判は一気に低下するだろう。ボクシングの場合がそうであったように、不慮の事故が起これば空手においても、スポーツとしての安全性、科学性と、武道としての倫理性が一挙に問われるに違いない。これで空手の名は地に堕ちる。

だからこそ、空手に関わるすべての人間が、安全性を最優先して、不幸な事件が起こらないように考えなければならないのだ。

日本の大会では死者はまだ出ていない、怪我ぐらいなら大丈夫だろう、などと考えないでいただきたい。問題の本質は怪我の大小にあるのではない。学生の身分ならまだ、多少の怪我は大したことではないかもしれないが、働いている人間にとって怪我は致命的だ。「大会で足を折ったので、会社を休ませてください」などと言って、甘えられる社会人はどこにもいないのである。

結果的に、そういうことができるのは、ある特定の人間だけに限られてくることになる。そんな中で「俺が一番強い」「俺がチャンピオンだ」と争い合っているのは、はっきりいって幼稚以外の何ものでもない。そして、ただ煽るだけではなくて、マスコミももう少し真剣にこのことを考えてもらいたい。責任の一端は、むやみに格闘技ブームを扇動するマスコミにもあると思う。

私の主義では、空手をやっている人は、模範的で立派な社会人でなければならない。もちろん家庭においても、子供たちに尊敬される父であり母でなければならないのはいうまでもない。したがって、もし大会でいい成績を残したとしても、社会や家庭において立派な行動がとれなかったり、あるいは友人に迷惑ばかりかけているようであれば、それは「空手道」を学んだことにはならないのである。

何度も言うようだけれども、正しく学んだ「空手道」を、いかに己の日々の生活に役立て、自分が身を置くこの社会に寄与していくかを考えていくことが、何よりも重要なことなのだ。稽古を積むことによって体力をつけることも、技術を磨くことも、その意味ではあくまでも空手の一部に過ぎないのである。それに気付く人がどんどん出てこなければ、どう強弁しても日本の空手に未来はない。

が格闘技ブームというかK-1などに全くの興味をもてなかった理由はこういうところにある。相手をやっつけろ、沈めろ、息の根を止めろ、という雰囲気に馴染めないというか興奮のカタルシスを得ることができないからだと思う。

俺が一番強いんだ、と偉そうにするやつは好きでも嫌いでもない! が一番嫌いなのがそれにあやかる連中、群がる連中である。強いものに同化したがる人間の心理はわからないでもないが、金銭的に利用しようとしたりして持ち上げる人物が一番気に食わない。そんなものは裸の王様を育てているだけではないか!

マスコミもスポンサーを気にしたり、というか金を持っている連中、金を支払う連中に対してこうも簡単にひれ伏してしまう多くの日本人の精神状態にがっかりするのだと思う。サッカーでもそうだが内輪だけで盛り上がるようなイベントを用意してもそれらに群がる連中を楽しませることはできるかもしれないが、真の「The Best of the Best」を創造することができないのと一緒だと思うんだけど・・・いかがであろうか?

外国から相撲界に入門する人たちに聞いてみるといい、金がすべてではないにしろ、やっぱり金は大きなモチベーションになることは疑いの余地がないであろう、いや、奇麗に使われる金ならばどんどんそのモチベーションは高められるべきだと思う。

それよりも問題だと思うのは日本の国技という相撲、その文化やしきたりを学んで祖国の地へ還元したいというモチベーションを持った純粋な力士はいるのであろうか?

空手や柔道、剣道に憧れる外国人がいるうちはまだいいが、その東洋文化に憧れる神秘的なものがなくなるようなとき、日本人の精神は相当病んでいる状態であることは想像に難しくない。こんな未来を日本人は迎えたくないはずだが・・・

外国人力士が祖国へ帰国して同じ格闘家にこのように話すところを想像してみてほしい! サッカー賭博やろうぜ、本来の収入以外にも手っ取り早く儲けることができるし、なんなら斡旋しいるマフィアに通じる人物を紹介してやるよ、絶対にばれないって、俺はこれを日本で相撲やっているとき同僚の日本人力士が皆野球賭博で小遣い稼ぎをしていたのを見習ってな、俺の国でも応用できないかなって思ったのさ! 最初は小額でもいいから・・・

, , , , ,

Powered by WordPress. Designed by WooThemes