相撲協会更生へ向けてその2、道場の雰囲気


世界誠道空手道連盟誠道塾

相撲協会更生へ向けてその2、道場の雰囲気

っぱり大相撲中継がないのは・・・どうしようもないけどファンが犠牲を払っている感じがしてどうも納得がいかないなぁ、白鵬の連勝記録更新中の臨場感が伝わってこないし、大関に昇進して優勝を一刻でも早く達成したい把瑠都の行くへも全くと言っていいほどつかめていない。

藤井康生アナウンサー、北の富士親方、舞の海コンビの解説も聞くことができない! 相撲ファンは日本国内だけにいるんじゃないんだぞ、これからはきっと広く海外に住む多くの日本人の心に響くはず、だからしっかり頼むよ、ホント・・・

( 相撲協会更生へ向けてその1、指導者に問われるもの )では指導者たるもののあり方の理想像を世界誠道空手道連盟誠道塾の中村忠 (空手家)氏著書「人間空手」からの抜粋をもって幾つか紹介してみたんだけど、今回のその2では道場の雰囲気、相撲協会で言ったら各相撲部屋の雰囲気というかあり方の理想像を紹介してみようと思う。時津風部屋での日常的な暴力による死亡事件による死亡事故も起こったことだし少しは参考になるのでは、と思っている。

ポイントとしては「人間空手」で書かれている誠道塾の舞台がニューヨークという人種のるつぼ、様々な人種の生徒がいる環境下で中村氏の思考、哲学などが反映されていることとウィンブルドン現象ではないが日本相撲協会でも国際化が進む中、多くの相撲部屋でも外人力士が増え、その環境が誠道塾のそれと似たようなものになりつつあるので一考に価するのでは、と考えている。では、早速本題に入ろうか・・・

安全性の重視、指導教程

誠道空手の特色は何か、と聞かれたとき、私は必ず「安全性」であると答えることにしている。「空手」と「安全性」この一見とらえどころのない答えを前にして、大抵の人は拍子抜けしたような顔をするのが普通だ。

なぜそうなるのか。理由は簡単である。空手の修行といえば、とくに日本においては、辛いもの、過酷なもの、肉体的な極限を究める危険なもの、と長く信じられてきたからである。だが、はたしてそうだろうか、と私は思うのである。空手を学ぶ上で、辛い修行に耐えることには、確かに大きな意味がある。忍耐は身体と精神を鍛える。それは認めよう。しかし、我が身を危険に曝すことが修行であると考えるのは行き過ぎである。

道場における危険な稽古は必ず怪我を呼ぶ。怪我は本人のやる気を阻喪させる。そうして個人の士気の低下は、道場全員の士気の低下を招く。安全性の無視が呼び込む悪循環である。

これに対して「安全性の重視」はすべてに好結果を招く。怪我がなくなると空手を学ぼうとするそれぞれのやる気が嫌が応にも高まってくる。また怪我をした、させられたのいさかいがなくなり、門下生同士の気持ちが一つにまとまってくる。そこに尊敬と礼節が生まれる。

そして、一番大切なことであるが、それらの結果から道場全体の極めて良好な雰囲気が生まれることになる。ちなみに道場の雰囲気がよくなると入門者が増え、素質に溢れた人材が多く集まるようになる。結果、優れた実力をもった空手家も多数輩出する。ただこれはあくまでも結果であり、「安全性重視」の副産物に過ぎないと考えていただきたい。ともあれこれが、誠道空手の特色を「安全性」に置く根拠である。

では、その安全性はどこから生まれるのか。鍵はやはり指導教程にあると私は考える。空手に対してどんな立派な考えをもっていても、指導教程がしっかりしていなければ優れた空手教育はできない。またいかに屈強の空手家といえども、指導教程のなんたるかに知悉していなければ、優れた空手家を育てることはできない。稽古の現場において、指導教程は空手家の手足そのものであるからだ。

回も空手の箇所を相撲と置き換えて読んでいただきたい。特に安全性重視という部分は怪我と隣り合わせの相撲環境でも大いに活用できる知恵ではないだろうか? 一般人の門下生が相撲部屋へ入門することはないにしても、多くの若者が将来の活躍を夢見て激しい稽古に励むモチベーションの精神的な充実感は指導教程で安全性重視とあれば、一つの不安材料を取り除くことに繋がるのでより一層稽古に励む、という好循環が生まれやしないだろうか?

覚えているんだけど僕が誠道塾へ通っていたころも大勢の社会人でいつも道場は賑わっていた。プロフェッショナルな職業からブルーカラーの人たちまで実に様々。もっと驚いたのが僕より年配の方たちの参加率の高さ。

そして女性門下生が40パーセントを超える割合で道場の生徒カラーを埋め尽くしていた。こういった要素は誠道塾の指導教程が安全性を感じられるものと門下生が認識できなければ達成できないであろうことは想像に難しくない。それぐらいに誠道塾道場の雰囲気は空手空手、という雰囲気ではなかったのだ、もちろん、稽古は普通に厳しかったけどね!

空手の稽古

私に言わせれば、それまでの空手の稽古は、あまりにも粗雑でありすぎた。初心者からすぐ組手に立たせるというのがその際たるものである。組手は確かに空手の支柱であるが、ろくに基礎もできていない初心者にやらせて、事故が起こらない方が不思議である。では、何故そのような初心者に組手をさせていたのか。ここに従来の空手指導の欠陥がある。

これまで空手の稽古は、基本と型、そして組手から成り立っていた。しかし、現実問題として、空手家であれば誰でも体験的に知っているように、基本技と実際の組手の間には大きな隔たりがある。つまりどのような基本技がどのような場面で使えるか、それを知っていて初めて組手ができるのである。

ところが、従来はこのような基本と組手との間のブリッジになるような稽古方法が確立されていなかったがため、勢い入門の段階から組手に立たされることになった。教える方法がないから、身体で覚えろというわけである。そうして指導教程の不備を生徒の危険負担によって補わせてきたのであった。

これに対して、ある段階になるまで組手をさせないということは、実質的には基本と組手の間をブリッジする指導教程を整備することを意味する。まず最初は組手に立つための基礎をじっくりと学ばせる。それもできるだけ具体的で段階的である必要がある。そのような指導を可能にして初めて、一定の段階までは組手をさせないという稽古を行うことができるのだ。誠道空手がグリーンベルト以上にならないと組手をさせない背景には、実はこのような裏付けがある。

たとえば、白帯やブルーベルトの段階では空手の基本の技や型に重点をおいて学ばせる。次にイエローベルトでは組手の基礎となる「誠道の基本組手」という動きを覚えさせる。そしてアドバンス・イエローになってからは基本組手を生かして約束組手を行い、グリーンベルトになっていよいよ組手に入る。この間各段階では、それぞれの段階に合わせた型や動きを幾つかのパターンとして教え、それらをマスターして初めて次の段階にいけるようにしている。

このため、生徒としては当然早く組手の稽古をしたいので、基本の動きを一生懸命に身につけるようになる。しかも、一つの段階をマスターしても次はこれ、その次はこれというように次々に新らしい目標が与えられる。となると、生徒はある目標を成し遂げた充実感を確実に味わいながら、同時に次の新しい目標に向かっていくことができる。そうして結果的に、グリーンベルトを許されて組手ができる時期には、もうある程度の空手の技や知識が備わり、組手にもスムーズに入っていけるのである。もちろん、実力を無視した無理な稽古をやらないために、ほとんど怪我がなくなるのはいうまでもない。

い事に共通していると思うのだが最初の齧りでどんどんとその稽古事の知識なりが増えて少しずつだが自分のそれがなんとなく形になってきていると手ごたえを感じるときほど楽しいものはない。誠道塾でいう白帯から始まって基礎を習いつつ、段階的に空手の本質を学ぶ課程、アドバンス・イエローまで昇進して行き、実戦を試してみたいという気持ちが自然発生するモチベーションである。

相撲界にもこのような指導教程が存在するのであろうか? 海外からやってくる門下生はどうなのだろう? その場合には日本語学習をサポートするシステムや日本文化、日本国技という相撲文化に対する知識習得サポートなどは各部屋任せなのだろうか? 相撲協会などが積極的に全体を盛り上げることを考慮してえこひいきなしにサポート体制を組織していくのか? どのように思います?

道場の空気

この決定には、初め反対もなくはなかった。グリーンベルトになるまでには随分時間がかかるし、グリーンベルトになってからもセイフティーをつけなければ組手ができないというのでは、道場の魅力が半減してしまうというわけだ。とくにグリーンベルトより上の門下生からは、すでに自分たちのパンチがどれほどの威力をもっているかは分かっている、それなのにセイフティーをつけなければならないのは煩わしいだけでメリットは少ない、という意見が集中した。

実をいえば、私にしてもできるならばそんなものはしたくないと思っていた。セイフティーなしでも皆が自分の技や力をコントロールできるならば、そのような決まりを作らなくてもいいわけだ。しかし、現実的にそれが難しいのもよくわかっていた。そこで私は、

セイフティーは自分をプロテクトするためにつけるのではなくて、相手をプロテクトするためにつけるのだ。だから、弱い者だけがつければいいというのではなく、むしろ強い者こそつけなくてはならない」と説明して、門下生の気持ちをまとめていった。それでも支部長クラスの人間の中には、最後まで疑問を口にしていた者もいないではなかった。

ところが半年経ち、一年経つと、ガラッと門下生や支部長クラスの反応が変わってきた。セイフティーに慣れたということもあるが、まず怪我人が出なくなったのだ。そうなると道場の空気が明るくなり、組手ができないことに不満をもつのではないかと思っていたグリーンベルト以下の門下生たちも、一日でも早く組手ができるようにと、次々に与えられるプログラムに熱心に取り組むようになったのである。その熱意は、組手ができた頃のそれを遥かに凌ぐほどである。

こうしてグリーンベルトまで組手をさせないことによって、生徒の質も道場の雰囲気をそして道場経営という側面も、すべてにおいて従来とは比較にならないぐらいよいものになっていった。振り返ってみれば、誠道塾が大きく伸びた原因のひとつがこれであるだろう。

道塾の特徴の一つ、道場の雰囲気がいいこと、これに尽きる! でも相撲部屋の場合、これと同じような環境を作ることの努力は並大抵ではできないことも承知の上である。一日中、稽古以外にも寝食を共にしすべてにおいて共同生活。その上自分の行動範囲なども厳しく管理されているのでストレスも溜まりやすい。成績が上がらなければ飯が食えないという現実問題も習い事の空手とは比べること自体間違っているのかも? 現役力士の大麻服用という問題も起こるべくして起きたのかもしれない。

だがあえて言わせてもらうなら、それらの慣習を新しいものにと見直す時期にきているのではないだろうか? 昔の環境と比べて違ってきた部分はたくさんあるはず。日本人力士よりも外人力士が増えてきた現実。インターネットに見る情報化社会の環境のせいで閉じ込められた生活環境からでもある程度の情報を得ることができる現実。

一つのアイディアだが相撲環境におけるすべての情報をオープンに公表してしまってはどうだろうか? 朝何時に起床してまずどのようなことから力士は生活がスタートするのか? 稽古の指導とはどういうところにポイントを置いているのか? 毎日同じような稽古内容なのか? 横綱や大関クラスの力士の稽古メニューとかはどのようなものなのか?

場所以外での力士の生活様子から、場所中での生活環境など一般の相撲ファンでなくてもこのような情報は興味あるはず。国技の相撲文化の発展を望むのならばこれぐらいのオープン性をもって広く社会に開放していくのも一つの手段だと思うのだがいかがだろうか?

筆記試験

筆記試験を設けたのは、従来ののような技の切れ、かたちなどをみただけではあまり意味がないのではないか、そんなものは普段道場でみているわけだし、むしろせっかく試験をするなら、普段は把握しづらい本人の知識なり考え方などに重点を置いた方がいい、と考えたからだ。このため、試験の問題の中には、空手の知識を見るものの他に、短い記述式の問題も含まれる。

たとえば、白帯の場合では、基本の名称や突き、受けの種類をあげなさいといった問題のほかに、「あなたはなぜ誠道塾を選びましたか?」「稽古を始めて、いま空手をやっていることをどのように考えていますか?」などの質問に短い文章で答えなければならない。また中級クラス以上になると、後で述べる私のメディテーションの授業についての感想を書きなさいといった質問が出題される。

この場合は、私がその回答を手に逆に生徒たちに質問をすることにしている。たいていは他の生徒にもいい影響を与えそうなのを選んでみんなの前で読ませるのだが、要するに試験においても何か新しいものが学べるという状況になっているのである。誠道塾では、審査においても蹴りがきれいで、突きが強くて、型が美しければいい、というある意味で技術偏重の評価の仕方はしないのである。問題なのは、人間として私の空手から何かを学んでくれるかである。

っぱりねぇ、すべては中身なんだよねぇ、中身! その人のなりと人格は、その人の中身を観察すれば、というのは真なんだろう! 学ぶ課程ではすべてにおいてその思考過程がとても重要なのだろう。どのようにしてその解にたどり着いたのか、と。

黒帯、初段の意味

さて、こうした着実な段階を踏んで生徒が初段になった場合、誠道塾では“黒帯”とともに有段者しかもてない「ブラックベルト・マニュアル」を贈っている。このマニュアルには本題の空手のテクニックの解説や型、セルフ・ディフェンスの解説など、黒帯で習うマテリアルの他に、私の毎年のメッセージ、メディテーション・レクチャー、黒帯名簿などが収められている。生徒たちには「これをもらうといかにも黒帯になったという実感が嬉しい」と評判がいいが、その贈呈式の時に私は決まって次のような言葉を一緒に贈ることにしている。

諸君は白帯からはじめて4年も5年もかかってようやく黒帯になったわけだ。だが、どうして一段といわずに初段というのか君たちは知っているだろうか。もう一度初心に戻り、最初からやり直すようなつもりで頑張りなさいという意味が込められているからだ。黒帯を締めたから偉いのではない。そんなことではいままでやってきた空手がみんな死んでしまう。だから、さぁ黒帯だなどと思わずに、初心に戻って再スタートするつもりでやらなければ駄目だ」

また毎年5月には、先にもあげたように、ブラックベルトだけを集めた恒例の「黒帯クリニック&ミーティング」を開設している。この時に新しい誠道空手の型や動きを発表して、講習会を開くほか、黒帯会員の親睦を図るようにしている。このように誠道空手のベルト・システムは、「安全性」という考え方をキーワードとして見るとはっきり分かるように、合理的、多層的に構築されているのだ。

道塾では黒帯を得るための試験実施中、すべての参加者、アドバンス・ブラウン以上の者はその期間終了まで白帯を締めて初心者クラスなどにも参加するよう仕向けていたと思う。ここまで異文化で育った人間を日本の空手文化に馴染ませるための説明、説得へのエネルギーは相当なものだと思う。

これからの日本社会、きっと多くの移民者を抱えることになるはず。そのときに日本での生活スタイル、慣わしはこの通りだからといった簡単な説明だけで彼らに順応しろと説いても無理であろう。そこにはどうして日本社会がこのような今日の日本文化、日本社会を形成するに至ったかの説明が日本人以外の人たちが納得いくようなレベル、客観的な視野に立っての説得力が必要になってくると思われるのだが、いかがだろうか?

メディテーション、調身・調息・調心

調身・調息・調心。空手に限らず、勉強でも仕事でも、すべからく大切なのは己自身を謙虚に見つめ、正しく律することであると、私は思う。空手をすることの真の目標は、決して身体をつくり、技を磨くことにあるのではない。一番大きな目的は、空手を通して心豊かになることである。そこに空手の意義がある。この考え方を実現するために誠道塾で取り入れているのが、メディテーションの授業である。

「君たちはいま、この道場に通って誠道空手を習おうとしている。しかし、ただ型を覚え、組手を習うことによって、強くなりたいとだけ考えていはいけない。空手の部分の一つが型だったり、組手だったりと、それはあくまでも空手の一部分に過ぎないからだ。それだけが空手ではない。もっと大事なことがあるはずだ。それが何か、それが君たちにとってどのような意味をもつのか、いつもそのことを考えていないと、いくら稽古をしても君たちの努力は無駄に終わるだろう。

たとえば、私の周りにも、どうして自分だけがこんなに苦労しなければならないのか、と思っている人がいる。けれど人生厭になっても、心の目を見開いて、周りをよく見れば、本当は自分がいま置かれている環境に感謝しなければならないことに気付くはずだ。

たとえ他人が幸せそうに見えても、決して羨ましがったり、妬んだりして、投げやりになってはいけない。実際、人間というのは幸せそうに見えても、それぞれ何か問題を抱えて苦労しているのだから。そういう時には、なおさらこう思わなければいけない。

苦労しているからこそ生きることの喜びを感じるのであるし、問題を抱えているからこそ、自分が飛躍できる、すなわち人間形成ができる絶好のチャンスを掴んでいるのである、と。

だから順境だとか、逆境だとか、そんなことに人間、一喜一憂していてはいけないのだ。人生を長く生きていれば、すべてが上手くいっているような時も、本当に自分が死に追いやられるような時もあるだろう。だが、そよ風のような順風の時期がいつまでも続くと思ったら大間違いだし、また、逆境にいて、もう心の底から人生を諦めようというような時期でも、それが一生続くと思ったらやはり大間違いなのだ。

大切なのは、苦労や問題に直面したときに、それにどう対処するかということにほかならない。いかに自分がそのような状況を受け入れるかということによって、自分自身が変わっていくのであるから、それを忘れてはいけない。

どんあ時にも、この困難が俺を試しているんだな、俺を鍛えてくれようとしているのだと思い、これはチャンスなんだから、このチャンスを生かして少しでも成長してやろうと考え直して、自分自身の意志で積極果敢にことを貫いていってこそ、自分の人生をよくすることができ、また人生に対する目も開けてくるのである。

後になって、あぁ、あの時自分は大変だったけれど、あの困難を乗り越えてきた、自分の歴史を自分で切り開いてきたと思うことができれば、きっとそれが大きな自信となるはずだ。結局、人間は自分の歴史に対して、いつかは満足しなければならないのだから。

その困難を何とかうまくごまかして生きるようでは、人間は少しも進歩しない。そういうことではなく、生きている一時一時を全力で生きるように、人間は努力しなければならないのだ。

俺の人生はあと何年だ、何十年だといっても、神様でない限りそんなことは分かるわけがない。大事なのはその日一日、一刻一刻を精一杯生きることだ。そうして精一杯の感謝の気持ちで力強く生きることで、その人なりの人生の意義というものがさらに深まるのだ。

そしてもし君たちが人生を真剣に生きようとした時には空手は君たち一人一人にとって、人間としての大きな財産になるだろう。空手はそのきっかけも、求めるものそのものも教えてくれるに違いない。空手を通して君たちがそれぞれの人生の意義を掴んでくれることが私の心からの願いなのである」

道塾へ入って驚いたのは、空手という意味をフィジカルではなくメンタルな部分でえらく影響を受けたというか感心させられたことが大きい。姿勢を整え(調身)、息を整えれば(調息)、自ずと心静まる(調心)。大きくゆったりと、小さいことに動じることなく大らかな心を持って事に集中していく。

メディテーションのクラスがあるんだけど皆集中して中村氏の話を聞いているんだよね。やっぱりそれを与えるだけの素養というか活字を消化した上での学問においての基礎がその人物の芯に形成されていないと、ある例を並べてみても説得力がないのだと思う。逆に真にその人が信じる心から訴えるものが備わっているならば、たとえ異文化のものであろうとそこには尊敬が生まれるし、それを取り入れる上での違和感などは存在しなくなる。

ファミリー空手

とくに誠道塾の場合、年輩者(60歳以上の人がとても多く、みんな定期的に道場に通い稽古に励んでいる)や女性、それに子供の生徒が大変に多いことが一つの特色になっている。普通なら、若いうちにある程度の段を取ってしまえば、その後空手を長く続けようとは思わないであろう。ならば、誠道塾の年輩の生徒たちがどうして長く続けているのか?

ひと口にいうならば、自分が空手をする理由、意義をそれぞれがしっかりと把握しているからである。誠道空手は、お互いにお互いを見詰め合って、学び合って、自分自身を磨いていくことを目標としている。そのために、空手の稽古をすることによって、自分を素直に見つめる心を養うことができるのだ。これが年齢層が幅広くなってきていることの大きな理由の一つである。

以前のように、すなわち極真会にいた時のように、最強の選手を育てなければいけないという考え方でやっていたら、こうはならなかったろう。もしあの時のままであったら、ある程度年齢のいった生徒は「私はもうそんな年じゃないし、そんな道場には向いていませんね」といった感じになって、いつまでたっても血の気と体力だけが自慢の無鉄砲な若造の集まる道場になっていたはずである。私にいわせれば、空手の道場は、自分もやっている、自分の息子もやっている、自分の娘もやっているといったぐらいの雰囲気が調度いいのだ。

それであるが故に、私の目指す心の空手は、対外的な形としては「ファミリー空手」の姿をとる。「ケンカ空手」や「格闘技空手」に魅かれる血気盛んな若者には受けないかもしれないが、もともとそれは私の本意ではない。

こういうと、それならば強さはどうでもいいという考え方なのか、と疑問を持つ人もいるかもしれない。「ケンカ空手」に対して「ファミリー空手」では、確かに若い人の中にそのような疑問をもつ人が出ても不思議ではない。

私自身は、心の空手を抜きにしてただ単に強さだけを語ろうとは思わない。しかし、あえてそのような疑問に答えておくなら、現在の誠道塾の黒帯たちは、極真会時代とは比較にならないほど強いといっていいだろう。すでに語ったように、誠道塾には本部だけでも百人を遥かに超える黒帯がいて、ウィークディに常時50人以上近くの黒帯が通ってくる。むろん、この中には世界に通用するような逸材がたくさんいる。

・・・中略

誠道塾では、さまざまな場所で開かれる大会に積極的に参加するように奨励している。どのような大会に出るか本部に届け出れば、フルコンタクトの大会であろうとセミコンタクトの大会であろうと、あるいはポイント制の大会であろうと、参加するのは自由である。届出を義務つけているのは、数ある大会の中には、質のよくないものも含まれているからだ。間違ってそういう大会に参加して、嫌な経験をするのを予め防ごうというわけだ。ともあれ、日頃50人以上の黒帯が稽古に汗を流す道場と、総勢でも10人前後しか黒帯がいない道場と、どちらの質が高いかは語らずとも明白なことであろう。

それもこれも、誠道塾になって、稽古法が改善され、人材が豊富になってきたが故である。怪我をするとどうしても空手を挫折することが多いということを、私は極真会の師範代時代に嫌というほど思い知らされた。空手に嫌気がさすということもあるが、一つにはそれによって自分の生活が狂ってしまうことの影響が大きい。怪我をすれば当然勤めを休まなければならなくなる。そうなれば収入の道が閉ざされる。結局、空手を続けることが出来なくなるという悪循環だ。

これでは、いかに「最強の選手」を育てようとしても上手いくわけがない。原因は選手ではなく、道場の側にあるのだ。道場そのものが空手道の初源に帰って、人間の心を磨く場へと立ち戻らなくてはならない。原点へ帰る。いま必要なのはただそれだけである。単純なことである。誠道塾が質的にも大きく伸びたのは、実はこのような「ファミリー空手」という考え方をはっきりと打ち出してからである。

道塾の特徴の一つ、黒帯が非常に多く、平日のクラスでも常時最低でも10人は集まってくる。そして黒帯だけのクラスとなるとこれが恐ろしい。毎回30人から40人程度参加していただろうか、こうなるとこのクラスの人間の覇気、黒帯たちの気合というものが如何に凄いのか、本当に鳥肌が立つ。

グリーンベルト以上は黒帯と一緒に稽古するクラスにも参加できるので、この稽古は本当にすさまじかった。黒帯たちの気合、それも10人、20人、30人と集まった黒帯が発する気合の凄さを体験できるのが誠道塾の特徴と言えよう。

さて、いかがであっただろうか? 人間の集団があるルールを持って生活していくことの大変さは誰もが分かっているであろうが、その分子が各国から異文化環境で育った人たちをまとめていくのである。すべてを取り入れることには無理があると思うが、相撲協会更生への各相撲部屋への雰囲気作りとして参考になればと願っている。

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