相撲協会更生へ向けてその3、空手は心の武道


世界誠道空手道連盟誠道塾会長中村忠

相撲協会更生へ向けてその3、空手は心の武道

木な人物との出会い。( 決断力 – 羽生善治、凛々しい日本人を取り戻すために )で紹介した動(柔道、剣道、合気道、空手道)と静(茶道、書道、華道)、文武両道での取り組みの際、静の部分で触れた将棋世界の巨木、羽生善治氏の教えについて以前記述したが、今回は動の部分、僕がニューヨークへ来て出会った巨木、世界誠道空手道連盟誠道塾会長の中村忠 (空手家)氏の教えをここに記してみようと思う。

そもそも巨木とはどういう意味で使っているのか? 落合信彦氏著「狼たちへの伝言」の中で出てくる牛場友彦氏にまつわるエピソードでの記述、

つまり人の話を聞かない聞こえないのだ。君たちはどうかこの愚かしいカラオケ・メンタリティーを捨ててほしい。人の話を聞き情報を選択せよ。その上で自分の考えを開陳しろ。狭いカラオケ・ボックスで心の鬱屈を晴らそうなどと思うな。酒場の客や女の賛辞に満足してはならない。あのけばけばしい結婚式とカラオケ・バーにおける拍手だけが己の晴れ舞台であるなどというのは悲しいことではないか。

今、オレが缶詰になっているホテルの部屋に、ある編集者のメッセージが届けられた。牛場友彦氏の奥様が、直接ホテルに電話をするのは失礼だから伝言してほしいとのことだ。メッセージにはこう書かれていた。「あの夜、夫婦で涙を流しながら、落合さんのことを語り合いました。お尋ねいただいて本当に・・・」

視界がぼやけて、文字が見えなくなった。心が痛んだ。忙しさにかまけて11年間、氏の元を訪ねられなかったことを悔いたからだ。どうだ。カラオケを捨て、人々と話そう。巨木のような先輩と出会うチャンスを探さないか。そのような人物は、たとえ君が無名の若者であろうと、その良さを認め、伸ばしてくれる。オレがそうしてもらったのだから。

の記述で出てくる巨木的存在の人物、落合信彦氏にとっての牛場友彦氏。自分の人生ではどうかなぁ、と思っていたが僕もニューヨークへ来て出会ったのである。それが世界誠道空手道連盟誠道塾会長の中村忠氏であった。

中村忠氏のことを知っている人は空手界の人、特に極真空手を極めた人ならば一度は名前を耳にした方もいるかもしれない。極真空手を破門された男とは中村忠氏のことである。そのことによってもしあなたがネガティブなイメージを中村忠氏に対して抱いているとしたらそれは大間違いである。

中村忠氏著「人間空手」の中には、僕が多くの人に触れてもらいたい静の部分での日本人の知恵を含んだ将棋というものを取り上げたように、動の部分での日本人の知恵を含んだ空手という素晴らしい日本文化の教えのエッセンスがたくさん詰まっている。僕が多くを語る必要などない、ここに数々の中村忠氏からの教えの一部を紹介することにする。

誠は天の道なり

誠者天之道也 誠之者人之道也。誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり。新しい道場を開くにあたり、私は大学時代から最も好きだった「中庸」の中のこの言葉から名称を取ることにした。

天道の運行は一つの誤りもない。それ故に「誠は天の道なり」といえる。しかし、人間は人それぞれに私心が働き、ついつい天道に背きがちになる。それ故に人は常に努力をして誠を己の身に具現しなければならない。それが人の道である。空手を通して誠の道を見出し、把握できるようにと心に念じ、私は新しく開く道場を誠道塾と命名した。

人間として人に恥じることのない誠の道を歩んでいく、それが私の目指すところだった。そのためには、気持ちの通じる正直な人間と一緒に、お互い協力し合いながら、学び合いながら、共に正し道を歩み続けられるような、そんな組織でなければならなかった。

決して大きな組織をつくる必要はない。流派を名乗ることも会派である必要もなかった。そうではなく、寺子屋ではないけれども、小さな組織で本当に気持ちのいい正しい心を持った人たちと一緒に、ただ誠の道を歩むことだけを目指したかったのだ。誠の道を歩む小さな塾。こうして誠道塾は、1976年6月6日、マンハッタンの摩天楼の一角に産声を上げた。

ーダーたる存在の人、例えば経営者であってもその人にそのビジネスなりお金儲けなりの哲学とかポリシーが存在しない場合、就いていく従業員は時に不幸でさえある。軸がしっかりしていないためぶれることが多いし、そうなるとあぁこの人はもういいや、となってしまうのだが大きい小さいに関係なく、組織というものはそういう状態で運営されていることが多いのでは?

ロバート・キヨサキ氏著「貧乏父さん、金持ち父さんシリーズ」でも紹介されているが、ミッションというか事はじめに当たっての自分の中の軸を作ることは多難究める前途に希望を持って挑戦できるか、そしてそれを克服してそれに携わるであろう多くの人を幸せにできるか? というところにまで影響してくるからとても重要だと思うのだがいかがであろうか?

感激させられたのはこちらであった

館長への決別状を書いたのとほぼ期を一にして、私は生徒たちにことのいきさつを説明する文書を張り出した。「20有余年にわたり大山館長と共に歩んできた私であるが、ここに至ってお互いの考え方の違いがはっきりしてきた。振り返れば、幼い頃から一心不乱に極真空手に打ち込んできた良い思い出、館長と共に体験した素晴らしい思い出でいっぱいである。

この思い出を大切にする意味でも、また自分の信念を貫くためにも、私はもうこれ以上極真会に留まることなく、新しい自分の道を見つけなければならないと考える。しかし、生徒諸君にもそれぞれ考え方があるであろう。どうか諸君は、私の決定にとらわれることなく、自分自身の正しいと思う行動を取ってほしい」

そして、ミーティングでも同様の説明をした。「諸君らまでが、喧嘩別れをするようなかたちで破門された男と、これからも一緒にやっていかなければならない理由はまったくない。極真空手を続けるのもいいだろうし、また別のスタイルを選ぶのもそれぞれの自由である。諸君らは、本当に好きなようにこれからの空手の道を歩んでいってほしい

これに対して、生徒からは力強い激励の手紙が続々と寄せられた。「こういう大事なときだからこそ、師範の決意に賛同させてほしい」「私は極真会だからやってきたのではない。師範の空手に共鳴してやってきたのだから、名前が変わろうがスタイルが変わろうが、そんなのはまるっきり関係のないことだ。どうか、これからも一緒にやらせてもらいたい」

「師範の空手にただついていきたい。それができるならば他のことがどう変わろうが構わない。大切なのは人間的なふれあいであると思う」 感激させられたのはこちらであった。苦境の中にあって、師を信頼してくれる生徒たちの気持ちが本当に嬉しかった。びっくりさせられたのは、道場が変わるにも関わらず去っていく人間がほとんどいなかったことだ。この人たちのためにも、もっと頑張って、模範となるような道場をつくらなければならない、と私は勇気づけられる思いであった。

メリカという環境だったからなしえたのかもしれない。日本人ほど周りの意見に左右されやすい民族はいない。自分が良いと思えばそれに疑いを抱くことなく自分の生活環境に取り入れていく、というスタイルはその人の考え方に賛同するならば、人はその人についてゆくのだろう。自分自身の選択肢における責任も自分側に発生する。

他人任せの周りを窺うスタイルは時間稼ぎに使えるかもしれないが、主体性は生まれない。日本社会で事がぱっぱと決まり物事が進んでいく展開が遅いのはその性もあるのではないだろうか?

総川向海

すべての川は海に向かって流れている。つまり、大きな川、小さな川、まっすぐな川、曲がりくねった川、世の中にはいろいろの川があるけれど、たとえ時間がかかっても、弱々しく流れようとも、あるいは一時は速く流れ、また一時はゆっくりと流れようとも、結局すべてはひとつの目標、海に投げれつく、とこの言葉は教える。これを私は空手に結び付けて、生徒たちに次のように聞かせる。

「人間には身体の大きな人もいれば小さな人もいる。動きの俊敏な人もいればスローな人もいる。置かれている環境、生活も千差万別だ。だが、空手を通して我々が到達しようとしている目標は一つなのではないか。ただ力をつけることでも強くなることでもなく、より豊かに生きるための拠りどころを得ること、それである。空手の目標は、実はそこにあるのだ」

だが、空手の抜きにしてもこれは真実であろう。人間は誰でも、正しく、豊かな心をもって生きなければならないのだ。とすれば、私のやっていることは、いうならば私流のやり方でそれを追求しているということなのだ。だから、もしそれができるならば、あながち空手にこだわらなくてもいい。ある人にとってはその拠りどころがたまたま空手であったというので構わないと私は思っている。

かな心、豊かな心、豊かな心、豊かな心、豊かな心。心は見えないものだしつかみどころがないので自分は満たされているのか、何かに飢えて殺伐としているのか把握しづらいところがある、それが人間というものなのだろうか?

空手を学ぶ人々に

空手をやってみたい、空手を習ってみたい、という人々の一般的な動機はどうかというと、たいていは空手の格好よさに憧れ、自分も強くなってみたいとか、喧嘩に強くなってみたいとか、実に単純な動機である場合が多い。それはそれでいいのだろう。

大きな目標を持つことは大変良いことである。けれども、同じ強くなりたいと思うにしても、その途中の過程を無視しないように気をつけてほしい。長く空手の指導をしてきて、これから空手を始めようとする人に是非とも言っておきたいのはこのことだ。

空手が強くなりたいと思うことは素晴らしい。だが、「俺は空手をやって、黒帯になるんだ」といった風に、そのことだけしか眼中にないのでは、現実と目標との間にあまりにも距離がありすぎるため、往々にして、志半ばにして挫折しやすい。

人間の生活は空手だけやっていれば事足りるというものではない。学生ならば学業があるだろうし、社会人ならば仕事や親類、友人との付き合いなどもあるだろう。そうしたものを十二分にこなし、しかも高い目標をクリアしなければならないとなれば、大半の人が途中で、「俺には才能がないんだろう」、「きっと空手には向いていないのかもしれない」と考えてしまうに違いない。

私の考えでいけば、入門者は、大きな目標とともにより現実的な目標を持つべきである。もちろん、最初から「俺は道場で一番強くなるんだ」とか「高段者になりたい」とか「チャンピオンになりたい」とか「いろいろな大会に出てトロフィーをたくさんとるんだ」とか、前途にさまざまな夢を思い描くのはいいことである。しかし、それと同時に、まず現実を直視して、当面何を目標にしなければならないかを冷静に考える必要がある。大切なのは、目標に到達するためのステップを自分なりに考えることなのだ。

最初は、健康になりたい、体力をつけたい、基本技を覚えたい、いろいろの技術を修得したい、そういったごくごく身近な目標で十分なのである。例えば、誰でも白帯から始めるのだから、やり始めた以上とにかくブルーベルトまでは頑張るぞと考えればいいのである。そしてブルーベルトになったら、今度はイエローベルトを目指して努力すればいいのである。

少しずつ目標に到達する、大切なのはこれである。人間、どうしても欲張ると精神的な負担が大きくなってしまうし、現実と目標の距離があまりにもかけ離れていれば、途中で、やめてしまおう、投げ出してしまおう、という気分になってしまいやすいのだ。空手修業にとって、それが一番危険なことである。

そうではなく、初めは身近に、何とか頑張れば手が届くだろうという目標を持つことこそ重要だ。大体大きな目標に到達するためには、小さな目標を何段階も踏んでいかなければならない。そうしなければ、本当に大きな目標を実現することはできない。入門者こそ、それを理解して始めなければならないのである。体力を増強させたい、基本の技を修得したい、それでいい。それらに専念していれば、やがて徐々に、自分の身体や心の奥底から湧き出るように、次の目標が生まれてくるのだから。

手以外でもいろいろなところで活用できますよね! 自分なりに毎日コツコツと目標に向かって努力している人は強いです。そのような人は他人に対して嫉妬しません。嫉妬するよりもお互いを励ましあえる方向へと思考が働くからです。日本が嫉妬社会だなぁ、と僕が感じる主な要因は多くの社会人が社会に出てから自分に対しての勉強をやめてしまっているのが原因だと思います。社会に出てからも勉学を続けている人、あんまりいない気がするんですけどいかがでしょうか?

友達のできそうな雰囲気の道場

そしてもうひとつ忘れてならないのが世の空入門書などにはほとんど書かれていないかもしれないけれども、道場に入ったらできるだけいい友達を作ることである。先輩でもいいし同僚でももちろん後輩であっても構わない。良い友達は自分を伸ばす上でかけがえの無い財産になる。

先に述べた道場を選ぶということは、先生を選ぶだけではなく、先輩、同僚、後輩を選ぶということでもある。友達との関係は、精神面でも肉体面でも、自分の空手修業に大きな影響を及ぼす。人という一つの環境が、自分の修業を励ましてくれるものにも、逆にスポイルしてしまうものにもなる。良い友達を持てばそれだけ自分を高めることができるし、反対にそういう友達ができなければ、困難に直面したとき、はからずも投げやりな気持ちになってしまったりする。道場選びの話に戻すならば、まず初めに良い友達のできそうな雰囲気の道場を選ぶことが大切なのだ。

れからの日本社会、学校選びも住む地域に関係なく自由に選択できるようになって行くだろうと思われます。保育園、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学、専門学校などに始まり、あらゆる教育的雰囲気の現場でその良い環境作りをどれだけアピールできるか? どれだけ学ぶという環境の場を自由という雰囲気に包ませることができるか?

いじめ問題は社会の至るところで発生します。だったら素晴らしい出会いは自らが動いて自分で発掘していく必要があるのです。「良い人生とは良い検索である」と石田衣良さんがいっているじゃないですか!

空手の未来

かつて誠道塾を開くにあたって、私は「空手はもう一度原点からやり直すべきだ」と考えたことがあった。空手はいまこそ、その初源の思想に戻るべきなのだ。

武器を持たないでいかに身を守るか、というところから空手が生まれたとき、そこには人々の生きるための英知が凝縮されていた。生きることと空手とは、すなわち同義であったはずだ。だが、時代が下り、空手が広まるにつれて、だんだんに流派が生まれ、やがて最も大事な空手の心が失われていった。結果は、各流派が醜い争いを繰り返す現在のていらくである。同じ轍を何度も踏んではいけない。これ以上空手を冒瀆してはならない。

しなければならないのは原点に帰ることだ。いまこそみんなが、空手の誕生の原点から改めてスタートするぐらいの気持ちでかからないと、空手の状況はますます悪くなるばかりである。「それでは時代に逆行する」と思う人もいるかもしれないが、各流派がお互いにお互いを罵り合うような愚行を続けるなら、いっそのこと空手の歴史をご破算にして、ゼロから出直すほうが遥かに近道なのだ。私たち空手に携わる人間には、この国で生まれた素晴らしい武道、空手を正しい方向に進めていく義務がある。

いま、海外の空手は日本より遥かにレベルが高くなっている。そのことに、関係者はもっと震撼すべきである。これほど「いままでの私たちの空手は間違っていたのではないだろうか」と反省するいい機会はない。「これまでやってこれたのだから、このままでいいだろう」と考えるのではなく、一度「あまりにもたくさんの流派ができているけれども、これでいいのだろうか?」と自分自身に問いかけてみることだ。空手に関わる人すべてが、現状を考え直すべきなのである。

何故ならば、日本の空手はすでに過渡期を過ぎて、衰退期に入っているからだ。もうフルコンタクトがいい、ポイントシステムがいい、いやその中間がいいなどと、末梢の問題にこだわっている場合ではない。広く社会的な視野をもって、空手の明日を考えてみなければならない時期は、もうそこまで迫っている。

相撲は日本の国技だから大丈夫、という安易な考え方は危険です。相撲の魅力はどこにあるのでしょうか? 大きな体の力士があの土俵という舞台で激しくぶつかり合い、一瞬たりとも気の抜けない雰囲気、闘志を自ら発し、それが見ている側にも伝わってくる緊張感ぶり。15日間という期間を乗り切る上で一番大事なのは心技一体という精神的な部分でどれだけ平静でいられるのか? このような緊張感を共有できることではないだろうか?

日本政府の役割

ある程度国際的な視野をもった空手関係者なら良く知っているように、今韓国空手は大変な勢いで急成長している。とくにアメリカやヨーロッパなど、海外での普及は目覚しいばかりだ。理由ははっきりしている。国を挙げて空手を奨励し、政府レベルで後押しをしているからである。

翻って日本の実状を見てみると、まったくお寒い限りである。武芸大国だとか言っているうちに、今のような「流派の空手」に堕してしまったのは、国の武道に対する理解不足も、大きな原因の一つに他ならない。

要は、日本の政府がもっともっと武道を大事に保護し、奨励することが必要なのだ。特に海外に出て空手の指導に携わっている人たちは、日本の文化を正しく伝えようと使命感に燃えて仕事に打ち込んでいる。私の目から見ても、彼らは全権大使にも似た役割を果たしていると思う。

確かにそれは、外交官のように政府の要人や経済界の領袖にたびたび会うという性質の活動ではない。しかし、外国の社会の中で普通に暮らす人々と肌を接し、心を通わせ、あたかも空手の伝道師の如く、日本文化の素晴らしさを身をもって教えようとしているのは、紛れもなく彼らなのだ。

かがであろうか? 羽生善治氏が語る将棋に詰まったエッセンス、人間空手を目指す世界誠道空手道連盟誠道塾会長の中村忠氏氏の考え方には、かつての日本人、潔い、凛々しい日本人を取り戻すきっかけになりはしないだろうか?

文武両道、自分の頭と自分の体を使うこと、そのバランスを保つことが今の日本人に最も必要なことだと感じるは僕一人だけではないであろう。日本人はやれば出来るのにやらない、誰かが始めるのを待っている、助け合おうとしない、もっと自信を持っていいのになぁ、と外からみる僕の今の日本人像である。自分たちって世界に出てみると結構やれるんだなぁという気付きの機会を与えてくれるのは、日本を外から眺めるとき。日本っていいなぁ・・・

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