論理思考的サッカー、意図したことをチーム全体が感じることできるか?


論理思考

論理思考的サッカー、意図したことをチーム全体が感じることできるか?

アフリカW杯のメンバー発表も行われいよいよ来月に始まる本番を待つばかりである。日本代表はカメルーン、オランド、デンマークと強豪揃いのグループに入り、岡田武史監督が目標に挙げているベスト4進出を成し遂げるにはまずこのグループリーグ突破、最低第2位での通過を余儀なくされる。

いろいろな議論が展開される中、僕は今回の南アフリカW杯が一つの日本サッカー界での区切りになると思っている。その区切りとは初めて1998年フランスワールドカップへ参加し、中田英寿などの偉才を輩出、その直後に行われたU20(多分シドニーオリンピック世代)で世界の強豪アルゼンチンを見事1-0で破った世代が今回の大会で見納めになるだろうとの事。

いやもしかしたらその前から新しい時代は動いていた。フィリップ・トルシエ監督率いるU20の世代が見事FIFAワールドユース・ナイジェリア大会で準優勝。ユース世代からどれだけA代表へと昇進してくる選手がいるものかとあの時代の日本代表には楽しみと希望があった。

その希望の抱えたまま日韓共催W杯に望むことになり、日本は見事グループリーグ突破。初の決勝トーナメント進出を果たす。トルシエ監督率いる日本代表は3バック(フラットスリー)から始まる攻守の切り替え、連動性(オートマティズム)などそれぞれの概念を叩き込まれ、世界との差はどれぐらいなのか、と一種の度胸試しを行えるまでに日本代表のサッカーは成長していた。

その後、時代はジーコ監督の自由采配を日本代表は取り入れることになり、この辺りから日本代表の歯車がチグハグしてくる。一人中田英寿が代表全体から浮いてしまった形が浮き彫りになり、世界を知っている中田は孤独感を強いられた。

コミュニケーション不足などいろいろと指摘されてきたが、自己主張しないこの世代の特徴。育ってきた学校環境も影響していたのだろう。皆仲良し、仲良しでいるプレッシャーから順位を決めない過保護的教育指導、ゆとり教育のような貧弱な人材育成。

だれもがトルシエや中田など自分の主張を強く吐き出してくる輩に対して、論理的に自分の主張をぶつけることができた人材がいたのか甚だ疑問。選手層だけに限った話ではない。指導者たる人物や協会関係者面々、どれぐらいの人物が日本サッカーの方向性を熱く論理的に、現実的に展開してきたのだろうか?

ジーコから引き継いだイビチャ・オシムで大人のサッカー、ヨーロッパの本場のサッカー哲学を仕入れるチャンスに恵まれた環境を得たかに思えたが、不幸にもオシムが病に倒れ、現監督、岡田氏にその思いは託された。

ベスト4と意気込むのはいいが果たして情報をどれぐらい日本は取り入れているのだろう? 第2次世界大戦前に列強各国へ戦争を挑んだ無知な日本人と重なってしまうのは僕だけだろうか?

日本人がサッカーは弱く、野球に強いのはなぜか

日本の学生とアメリカの学生とで、どうしてここまでの落差があるのか。同じ日に、あまりに違う光景をテレビで見て愕然とした。元来、集団主義とされる日本人が孤独に「便所飯」をして、個人主義とされるアメリカ人が集団で活発に議論をしている。そこには、チームワークというものの違いが如実に表れているのではないか。

日本人は集団主義だと言われるが、チームワークを発揮できる場面が限られている。たとえば「30人31脚」や大縄跳びのように、横並びで同時に動くことは得意だ。しかし、サッカーのように、個人がそれぞれの判断で、しかも連動しコミュニケーションをとっていくことは苦手である。野球はどうなのか。あれは、守備位置が決まっているから日本人に向いていた。

日本人は受け身のコミュニケーションだから、自分の分身をつくっていくだけになりがちだ。他者をかかえこんで、コミュニケーションをとっていくことができない。同質のチームワークには強いけれども、異質のチームワークには弱いのである。( 日本と外国の若者の差がどんどん開く )

回の日本代表、中村俊輔や稲本潤一、遠藤保仁など、あっ日本人も器用になったなぁといった感覚を持ったサッカー選手の限界を露呈するいい機会だと思っている。もう技術云々だけでは世界に通用しない。極端な結論に結びつくけどサッカーが強くなるために日本教育システムを根本的に変えていかないとダメだと思う。それぐらいにサッカーというのは実に奥深い!

どうして日本人は海外の移籍先で孤立してしまうのだろう? 語学的な問題は根本的に解決しなくてはいけない。スポーツをやる子供には語学習得も平行して行うべきだというのは僕の自論である。( 低下する若者の「日本語力」 )( スポーツをやる子供に第2外国語習得も )

だがたとえ語学に堪能だとしてもそれだけでは不十分である。そこには論理的に思考展開できるサッカーにおける戦略論が必要だし、己のイメージを現実的にフィールドで展開するには他者に伝える能力としてコミュニケーションが必要となる。

この論理的思考がどうしてサッカーに結びつくのかというと、サッカーというのは将棋のように2手、3手先を読んで行動をするスポーツ。

あそこの位置へ走ればきっとここにスペースができる。だから自分はこちらへ展開を試みよう。あっ、あちらががら空きだぞ、誰か走ればチャンスが広がる。ゴール前に出フェンスが固まっている、強引にドリブル突破を試みたらどのようになるだろうか?

2次元と3次元

ッカーとは本当に難しいスポーツで観戦する分には楽しめるがいざプレーするとなると自由すぎてどのように動いていいのか戸惑う。

それはプレーしている環境が2次元の世界であるため、選手には縦と横の情報しか視野に入ってこない。自身が縦に走りボールを貰う、横への展開と2次元であるために中々全体としてのイメージがどのように展開されているか把握しにくいところがある。

だから実際に試合会場へ足を運び、サッカーが行われているフィールド全体の情報を生で仕入れることは非常にサッカーを理解する上で役に立つ。そこには2次元の縦と横という展開から高さ、という3次元の要素が加わるため、あっ、あそこの選手がこのように動いているぞ、あっ他の選手がそれにあわせて連動している。このような有機的に連動する選手たちが繰り広げる幾何学的な図形の変化を観察することができるのはとても意味あることだと思う。

この有機的なイメージを頭の中で把握できていればそこからの作業は右脳に蓄積されているアイディアを左脳に伝える、という仕事へ転換させることに繋がる。ここでの転換作業が日本人の苦手としているところなのかもしれない。

自分のイメージがあり、それを論理的に伝える能力はサッカー選手に必要なのか? それとも単にサッカーだけに専念しているだけで日本のサッカーは成長するのだろうか? 一つのヒントは次の記事に出会ったときに解消された。

日本人が国際交渉に弱いのは論理的思考ができないから

論理的思考の差は、サッカーにもよくあらわれていると三森氏は言う。

「ドイツやスペインなど、ヨーロッパでサッカー番組を見ていると、アナウンサーは『論理的』を連発する。日本のアナウンサーが『いいところにパスが出ました!』というところを、例えばドイツでは、『今のパスは論理的に有効でした!』というように説明する。トルシェ監督もインタビューの際に頻繁に『論理的』という言葉を使って、戦術についての質問に答えている。つまり、ヨーロッパではサッカーは論理で組み立てるゲームであると認識されているのである」(三森ゆりか氏のコラム「中田英寿選手のパスは『論理的』」より)

日本人は、英語ができないから国際交渉に弱いのではない。日本語ができないからだ。母国語で論理的思考ができない人間が、外国語でコミュニケーション力を発揮できるわけがない。

日本は海に囲まれているので、鉄条網の人工的な国境を知らず、隣にいる他者から論理的な説明を求められなかった。それでも高度成長時代は必死だったから、特攻隊のような果敢な突撃でなんとか海外に打って出られたが、これからは他者との対話の技術が求められる。( 「活字離れ」をどうするか、東京都が考える )

この議事が出たところのタイトル、「活字離れ」というキーワードに注目してほしい。そういえば似たような内容のことを以前のエッセイにも書いた。大事な箇所を抜粋してみよう。

教育を重視?

本代表の試合を観ているといつも感じるのが日本社会を象徴しているなぁ、というもの。ゴール前では譲り合い、シュートを打てるのにパスを出す。相手に嫌われたくないピア・プレッシャー社会、日本。試合中、選手同士で試合の方向性を変える思考力がない。監督に指示を仰ぐ、社長、支持をください受身社会、日本。自己表現が苦手、相手がその内わかってくれるだろう、コミュニケーション苦手社会、日本。

ホームは居心地がいいなぁ、海外遠征は時差ぼけとかあるから。フィジカルに日本は弱いからボールを廻そう。個人である状況を展開していく力不足。ドリブルで自ら仕掛けていく力、自らの運命を切り開いていける個人は日本社会には少ない。社会が悪いのか、政府が悪いのか?

クローズアップ現代で取り上げていた「“言語力”が危ない~衰える 話す書く力~」。この中で将来のサッカー日本代表を担う選手たちの育成に「言語力」指導が行われていた。これを見て納得! 中田英寿や本田圭佑のような強烈に自己をアピールする存在が日本の集団から煙たがられるのは「言語力」の乏しい個人がマジョリティーであることが原因の一つであると考えられる。

10月下旬、「言語力検定」がスタートした。言語力とは論理的にモノを考え、表現する力を指し、その低下が2000年以降進んできた、国際学力調査”PISA”での成績下落の一因と見られている。進学校でも、成績は悪くないのに「話し言葉のまま作文を書く」「語彙が少なく概念が幼稚」などの事態が相次ぎ教師たちは危機感を強めている。

また、言葉の引き出しが極端に少なく、例えば「怒る=キレる」としか認識できないため、教師が注意すると何でも「キレた」と反発され、コミュニケーションも成立しなくなってきている。背景には、センター入試の普及で「書く」「話す」が軽視されたこと、携帯メールの広がりで文章を組み立てる力が育っていないことなどが指摘されている。子どもたちの「言語力」低下の実態を見つめ、育成のあり方を考える。(クローズアップ現代参照)

手に自分の思いを伝えることもできない大人しい日本人。これでは海外へ移籍してからサッカー以外の要素で苦労するであろう。いつまでたっても日本は強くはならず、チャレンジするような個人も育たない、皆居心地のいい日本のJリーグでプレーできればいい!

そうではなく、中田や本田のような強烈な個性をぶつけてくる奴がイレブンいないと日本は強くなれない。海外では自己を強く主張するのは当たり前であるし、また主張しないと相手にもされない。僕が昔から主張しているスポーツをする子供には語学教育も、という視点は広まらないだろうか?(  とりあえず日本には勝てないだろうから、という国になりたい(サッカー)  )

日本語でのスポーツ指導の限界 

財界でも、スポーツ好きのオーナーが「体育会出身者」ばかりを集めて経営をした結果、イエスマンばかりが集まって、最終的には経営破綻に追い込まれるような暴走を止められなかった、そんなケースがありました。これも、厳格な上下関係に基づくコミュニケーション様式の欠陥だと言えるでしょう。そうした事例は、例えば「派閥の領袖」に「陣笠議員」が従う構図や、新人議員が「幹事長のチルドレン」だとして独自の発言を封じられるなど、政界では有権者の「一票の格差」という憲政の基本を踏みにじるような光景に重なって見えてしまいます。

私は、スポーツの世界にある秩序や、形式を重んじる姿勢、ハキハキした挨拶、公式の場に馴染んだ発現様式などを批判しているのではありません。そのような美点は全否定すべきではないと思うのです。ですが、下位とされる人間からの「異論」や「ネガティブ情報」をどう活用するのか? そして年齢や経験など序列だけでは統制の取れない、イデオロギーや利害調整の場ではどう対処するのか? こうした点については、実は日本の、いや日本語を使ったスポーツ界のコミュニケーション様式は全く未熟だと言えるのです。

W杯が近づいてきていますが、岡田武史という不世出の指導者にしても、サッカーA代表という複雑なチームをまとめるのに苦労しているようです。逆にA代表に選出されたレベルの選手でも岡田監督との信頼関係を作り上げることができない、その辺りもこの問題と関係しているように思うのです。

指示出しが「権力行使」に聞こえ、その結果「ダメ出し」が人格否定に聞こえてしまうために心から納得できず身体が動かない(非常に単純化してしまうとそういうことだと思います)、というのは岡田氏の問題を越えて「日本語でのスポーツ指導」におけるコミュニケーション全体の問題だとしか思えません。正にそのために「外国人監督」がサッカーでも野球でも求められ、スケートやシンクロなどの厳格な日本人指導者が逆に日本語の上下関係規定力に邪魔されない海外で活躍しているのです。( スポーツ選手の大量立候補に思う )

今回の南アフリカW杯を含めて4度目の出場ということになる日本代表。結果がどのように出ようが、一つの方向性、社会的であったり教育的であったり、または政治的にも文化的にも産業界全体、もっと大きく括って日本全体の方向性を探る一つのきっかけになるのではないだろうか?

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