はてな?
この著者の梅田望夫氏の ブログ「 My Life Between Silicon Valley and Japan 」 は毎回梅田望夫氏がアップするたびにチェックさせて頂いているが、その内容はいつも新鮮で面白い。
シリコンバレーで活躍するコンサルタントだが、2つほど注目している梅田望夫氏の活動がある。
まずは「(株)はてな」の取締役(非常勤)である。はてなの噂はなんとなく知っていたが、自分が積極的にその会社が提供するサービスに絡んでいくことはなかった。しかし、この本を読んで著者のファンになり、この著者が思い入れる「 はてな 」?とはどんな会社なのだろうか? と思いとりあえず参加することにした。
創業者兼社長の近藤淳也
「 はてな 」の創業者兼社長の近藤淳也氏はつい先日日本にある会社を部下に任せることにして、自ら渡米する行動に出た人である。彼の経歴が面白い。京都大学理学部物理学科出身の彼は、独学でインターネットとプログラミングを勉強したらしい。
会社の雰囲気も近藤淳也氏曰くちょっと普通とは違うらしい。参加する人全員が立ってする会議のほか朝の会議は英語でするなど、なかなかユニークというかエスタブリッシュメントのおじさんたちにはわかるまい。
その近藤淳也氏が梅田望夫氏の下、シリコンバレーを訪れたのである。訪れたというより2,3年は帰るつもりはないという。たいした人物である。社長としては日本に残してきた自分の会社が気がかりであろう。しかし、そこまでする決意の裏には近藤淳也氏が抱いていると思われる危機感を感じることができる。
タイミング的にもわかる気がする。日本は IT 関係のインフラは多分わからないだろうと思うが、世界一である。しかしその中身は? そこを通るコンテンツに日本から来た IT 関係者はアメリカのそれを見て、驚くという。ここに危機感を近藤淳也氏は持ったのだろう。これから5年、10年と時がたったときに、 IT 環境はまたさらにがらりと変わる。
世の中にはことを起こす人が1割ぐらいいて、何が起こっているのか気がついているひとがまた1割ぐらいいて、あとの8割の人間はことが起こったあとにその変化に気がつく、というのがほとんどではないだろうか?
日本人1万人・シリコンバレー移住計画
近藤淳也氏はその先頭に立っていたいのだとおもう。そしてこの近藤淳也氏のような若い人材をシリコンバレーに移住させてしまえ、という計画を梅田望夫氏は抱いている。
「日本人1万人・シリコンバレー移住計画」という非営利プロジェクトを実際にたちあげ、それが後の「 Japanese Technology Professionals Association(JTPA 」という非営利組織に発達する。
シリコンバレーに日本人プロフェッショナルのコミュニティーを作ることと、日本に住む若者が「シリコンバレーを目指す」のを支援すること、を NPO 活動の2つの柱に。
世の中は動いている。世の中は激しく変化している。その激動する世の中に自ら積極的に関わっていかないと、これからの厳しい社会、生き残ることはできない。このことに多くの日本人は本当に気付いているのであろうか?
ブログの面白さ・意義
ブログが社会現象として注目されるようになった理由は2つある。第1の理由は「量が質に転化した」ということだ。
ブログの面白さ・意義とは、世の中には途方もない数の「これまでは言葉を発してこなかった」面白い人たちがいて、その人たちがカジュアルに言葉を発する仕組みをついに持ったということである。
いろいろな職業に就いて、独自の情報ソースと解釈スキームを持って第 1 線で仕事をしている人々が「私もやってみよう」とカジュアルに情報を発信し始めれば、その内容は新鮮で面白いに違いない。ブログの総数が数万のときと数百万となった今とでは、質の高いブログのそろい方が全然違う。
ホリエモンのブログの人気が高かったことを思えば、世の社長さんはいい意味でのマーケティングとして利用する価値はある。インターネットを使い始めた1997年頃、ブログのようなサービスを一般の人が持つことができることなど想像できなかった。人はやっと小さいながらも第5の権力を得たといえよう。
成り行きでそうなった「ほんのわずか」
逆に言えば、これまでモノを書いて情報を発信してきた人たちが、いかに「ほんのわずか」であったかということに改めて気づく。そしてその「ほんのわずか」な存在とは、決して選ばれた「ほんのわずか」なのではなく、むしろ成り行きでそうなった「ほんのわずか」なのだ。
ニュースなどのマスコミが発する情報を見たり聞いたりしていて、この人は勉強していないなぁと思うことはないだろうか? なんでこんな奴が情報を発信しているんだ、というようなレベルの人はこれから淘汰されていくに違いない。まずはインタビューで当たり前の質問をできないような記者は消えていくであろう。
書けばきっと誰かにメッセージが届く
そしてブログが社会現象化した第2の理由とは、ネット上のコンテンツの本質とも言うべきこの玉石混交問題を解決する糸口が、 IT の成熟によってもたらされつつあるという予感なのである。
この本質的問題が解決されるなら、潜在的書き手の意識も「書いてもどうせ誰の目にも触れないだろう」から「書けばきっと誰かにメッセージが届くはず」に変わる。そんな意識の変化がさらにブログの増殖をもたらす好循環を生み出している。
ではその原因となる IT の成熟とは何か。一つはグーグルによって達成された検索エンジンの圧倒的進歩。もう一つはブログの周辺で生まれた自動編集技術である。
[quote1]
その届く範囲がインターネットの世界だと物理的な地理は関係ない。すごいなぁ、と思うのはインターネットが出現する前では、絶対に知り合うことがなかったような人に自分のメッセージが届くことではないだろうか?
日本語だけだと、まぁだいたいは日本人がそのメッセージの届く範囲だろうが、これが英語となるととてつもない可能性を秘めている。届くであろう可能性のパイがその日本語圏のものに比べるとものすごく大きいからだ。
自動編集技術
加えてブログ周辺には、グーグルほどスケールの大きなイノベーションではないものの、気に入ったブログの更新をウォッチする仕組み、ブログの個別の書き込みに対して読み手が意見や感想を書く仕組み、書き手と書き手のつながりが次々と発展していく仕組み、読み手の関心領域に近いブログを新たに発見する仕組みなど、広義の自動編集技術が日々進化を続けている。
これはコメント機能やトラックバック機能のことであろう。RSSやフィードリーダーを活用しているだろうか? 情報を集めるのに、こんなに便利なツールはない。
総表現社会
文章、写真、語り、音楽、絵画、映像・・・。私たち一人一人にとっての表現行為の可能性はこんな順序で広がっていく。それが総表現社会である。ブログとは、そんな未来への序章を示すものである。
チープ革命の恩恵で表現行為と発信行為のコスト的敷居がこれほど低くなる前は、表現した何かを広く多くの人々に届けるという行為は、ほんのわずかな人に許された特権だった。
今はテキストのブログが中心だが、必ず映像コンテンツのブログが発達してくるのは想像に難しくない。
メディアは淘汰されるべき
メディアの権威側や、権威に認められて表現者としての即得権を持った人たちの危機感は鋭敏である。ブログ世界を垣間見て「次の 10 年」に思いを馳せれば、この権威の構造が崩れる予感に満ちている。
メディアは淘汰されるべきだ。くだらない雑誌からテレビのコンテンツにいたるまで、国民に与える知への影響力はすさまじい。特にテレビだが、ある特定した視聴者に向けての低俗な番組はなくなっていくであろう。そんなものを見ている暇があったら自分に投資していかないと、どんどん時代から取り残されていくであろう危機感が、今後はもっと深刻なものになる。
チープ革命は進展していく
総表現社会 = チープ革命 x 検索エンジン x 自動秩序形成システム、という方程式で、ブログと総表現社会の今後を考えてみたいと思う。まず放っておいても「ムーアの法則」によってチープ革命は進展していく。
よって年々、表現者にとっての敷居は下がっていく。表現する為のありとあらゆる道具が、ほぼ無料で次々と揃う。母集団が増えていく為にはこの第1項が必須だが、何も心配はいらない。時が経つだけで、自然に良くなっていく。
ハードウェアは本当に安くなったがまだまだこの先も安くなるであろう。しかし、僕が本当に期待しているのは通信コストである。世界中、どこにいても通信コストが無料になった場合、人々はもっと活発にコミュニケーションをとるようになるのであろうか? 仕事のやり方が変わるであろう。
能動的なメディア
問題は方程式右辺の第2項と第3項である。玉石混交問題解決における第1のブレークスルーは検索エンジンであった。検索エンジンによってネット上の知の世界が整理されたため、私たちが何かを知りたいと思ったとき、まず検索エンジンに向かうというライフスタイルは広く定着した。
それによって、深い関心を共有する書き手と読み手が、検索エンジンに入力された「言葉の組み合わせ」を通して出会うことまでは可能になった。しかし考えてみれば、検索エンジンというのは、実に能動的なメディアである。問題意識、目的意識が明確な人はいい。このことについて知りたい。あのことについて調べたい。そういう欲求がある人にとっては素晴らしい道具だ。
アメリカではテストでカンニングを認め始めた学校がでてきた。当たり前である。Google を使えばなんでも調べられる。そんなことよりもその過程が大事なのであろう。答えにたどり着くまでにどのような思考を展開したのかこちらのほうが重要になってきている。
日本の教育システムが変わるのはいつのことだろうか? いや、政府を当てにしてはいけない。賢い人たちは、すでに危機感をもって自ら動いているはずだ。他人を当てにしてじっと待っている人は、時代から置いていかれる。
メディアの本質は受動性にある
しかしテレビでも新聞でも雑誌でも、メディアの本質は受動性にある。こちらから何も働きかけなくても、面白いもの、知っておかなければならない大切なこと、役に立つ旬な話題などが、親切にもどんどん提供されるのがメディアである。それでこそ、人口全体を対象としたビッグビジネスになるわけだ。
この受動性に大半の知識吸収を任せてしまうと、自分で考えるという行為が苦痛になる。情報を受身に任せて届けられるものを吸収しているだけだと、脳みそを使わないので楽だ。だが、これからの時代、自分が能動的になって自分が必要と思われる情報を適格に処理して自分のものにしていかないと、長い期間で見た場合、大きな差となって現れてくるであろう。
受身で育った日本人は自分で考えることが苦手だ。新生サッカー日本代表の監督になったイビチャ・オシム氏のメッセージは自分で考えろ。でも本当の意味は考えて実行することだと思う。
考えるのだったら夢想もそうだし、空想に陥りやすい。そこから考え抜く力につなげなければ。問題が目の前にあって、あぁーどうしよう。これも考えているうちに入るであろう。しかし、その問題を解決するためには考え抜く力が必要である。考え抜いてそれを実践する。オシム氏のメッセージはここまでの意味合いを含んでいるのだ。
表現者が「飯を食う」すべ
先進国の表現者が「飯を食う」すべは、相変わらず即存メディアに依存し続けるだろう。そんな状況が相当長く続くのではないかと思う。消費者である私たちは、ネットの世界とリアルな世界の両方で生き、相変わらず、テレビを見て新聞を読み雑誌を買い、ハリウッド映画を観て、DVD も買い、人気作家の長い小説を本で読み人気ミュージシャンの CD を買い続けるのだ。
かなり遠い将来までこの構造が崩れず、これまでの世界にとどまるほうが経済合理的だと、「飯を食う」ことを重視する表現者の多くが判断し続けると予想できるからである。
確かにそうであろう。しかし、発展途上国ではどうであろう。発展途上国では、違うものが発達する可能性がある。それが先進国へ影響を与えるべく大きな存在となった時に、もしかしたらこちら側のメディアの利用方法も変わるかもしれない。
情報は共有する
「自分がお金に変換できない情報やアイデアは、溜め込むよりも無料放出することで(無形の)大きな利益を得られる」ということに尽きると思う。」そしてその「溜め込むより無料放出」についてはさらにこう詳述される。
「まず個人にとってのオープンソースとかブログとは何か。それはポートフォリオであり、面接であり、己の能力と生き様がそのままプレゼンテーションの装置として機能する。記事を書き続けることで人との繋がりも生まれていく。転職活動をする場合、相手が読み手ならば自己へのコンセンサスがある状態から交渉を始めるアドバンテージを得られる。それだけのものを、金も人脈も後ろ盾のない人間が手に入れる唯一の手段が、情報の開示なのだと思う。」
情報は囲い込むべきものという発想に凝り固まった人には受容しにくい考え方であろう。しかし、長くブログを書き続けるという経験を持つ人たちにとっては、実感を伴って共感できる内容に違いない。ブログという舞台の上で知的成長の過程を公開することで、その人を取り巻く個と個の信頼関係が築かれていくのである。
情報は共有する。自らが持っている情報は開示する。そのことで起こりうるフィードバックのメリットは計り知れない、と説明している。この傾向は今後、ますます大きくなるであろう。
著作権についての論争
著作権についての論争がヒートアップしやすいのは、議論の当事者が、著作権に鈍感な人と著作権に極めて敏感な人とに別れていて、その間に深い溝があるからだ。そしてその溝は、「その人たちが何によって生計を立てているか」「これから何によって生計を立てたいと考えているか」の違いによって生まれている場合が多い。
加えて「総表現社会の到来」とは、著作権に鈍感な人の大量新規参入(ブログの書き手やグーグルのようなサービス提供者の両方)を意味する。新規参入者の大半は、表現それ自身によって生計を立てる気がない。別に正業を持っていて、表現もする書き手などはそういう範疇に入る。
そして総表現社会のサービス提供者とは、「表現そのものの制作によってではなく、表現されたコンテンツの加工・整理・配信を事業化する」人たちで、即存の著作権の仕組みを拡大解釈するか、新しい時代に合わせて改善すべきだと考える。 Web 2.0 はそういう方向性を技術面からさらに後押しするものだ。著作権をめぐるさまざまな議論が、感情的かつ平行線をたどりやすい真因はここにある。
Web 2.0 が多くの人々に理解され利用されていく過程で、それが市民権を得れば著作権についての人々のコンセンサスが新しいものに変わる可能性がある。しかしWeb 2.0 のような新しいテクノロジーのサービスをどれぐらいの人が理解して利用しているであろうか?
ソーシャル・ネットワーキング
そう考えて入力と出力を発想してみれば、「何かを知りたいと思ったら誰に聞けばいいか」「何かをやりたいと思ったら誰を雇えばいいか」「誰かに会いたいと思ったら誰に仲介を頼めばいいか」・・・。巨大マップの存在を前提とすると、入力は目的で出力は「人のランキング」になるのが自然だ。むろん相手が情報ではなく生身の人間なので順位付けをすることへの抵抗感はあるし、検索エンジンより技術的に難しいから、こうした仕組みが実現されるかわからない。
しかしソーシャル・ネットワーキングは、「人々をテーマごと、局面ごとに評価する」という「人間検索エンジン」とも言うべき仕組みへと発展する可能性を内在しているのである。
Mixi の可能性はここにある。
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