What's up, Japan?, 今の日本って大丈夫? - Written by B-KOOL on 月曜日, 6月 23, 2008 13:58 -
自分で何が必要かを学んでいける姿勢、超近代的狩猟社会
日本へ帰国しない理由
NHK特集「追跡・秋葉原通り魔事件」を見ました。
事件に対する憤りを多くの人が感じている事実と、容疑者の心境、そこまで陥ってしまった境遇に多くの同世代または同じような境遇で何とか凌いでいる若者たちからは理解できる部分があるとの見方が寄せられています。
孤独、不安、希望が持てない社会に希望のない、絶望的な自分の人生。日本の社会で戦っているこれらの悩みを抱える多くの人は、本当に辛いだろうと思います。
いくら日本の外から社会を眺めて、他人事のようなことを述べていても、実際に自分も今の日本社会の中で生活するような状況に置かれた場合、本当にその人たちに向かって軽々しく頑張れとか言えないような気もするんですよね。
僕が若い内には日本へは帰りたくないなぁ、というのもその辺のところに理由があって、そのぉなんていうか、自分が頑張ろうとするとたくさんのものが人の足を引っ張る雰囲気が日本の社会に充満しているようでどうしても同じように頑張るんだったらまだアメリカ社会で頑張ったほうが気が楽だろうなぁ、と判断するんですよ。
仮にそのような足の引っ張り合いとか多くの誘惑にも逃れることができ、自分の環境を孤高に保つことが出来た場合、果たして自分に襲ってくるであろう孤独感や不安というものに自分の気持ちが勝てるだろうか?
僕の場合、ラッキーだったなぁと思うのはこんな自分でも英語の勉強(これは英語で活字を読むという形へと変化しています)と読書はこちらに来てからもずっと続けていることです。
日本社会の外と繋がる
先ほどの状況に仮に自分が陥ったとしても、きっと今の自分ならば日本社会の外の世界と繋がることができるというか、別に日本社会だけがすべてではないし、というようなオプションを持つことが出来ると思うんです。
この外の環境と繋がる、というのが実はすごーいキーワードになりそうで、日本で現在喘いでいる多くの若者たちがもし、日本社会以外の外のところで何らかのつながりを持てることができれば、少しは気が楽になるというか余計なプレッシャーからも開放されるんじゃないかなぁと思うわけです。
そのぉ、もうーちょっと頑張れないかなぁって、どうしても僕は思ってしまうんですね。自分の脳みそをもうすこし鍛える努力ができないかなぁ、と。
日本の社会の枠組みだけで答えを探そうとするから行き詰るわけで、外の世界に目を向けることが出来ればやらなければいけないこと、自分に足りないものなんかが必然とわかってくるような気がするんですけどいかがでしょう?
5年、10年で自分は変われる!
フリーターでも派遣社員でも5年、10年と英語習得やウェブリタラシーに時間を費やせば、何かが開けてくると思うんです。
自分の情けなさに投げやりになる気持ちもわかるんですけど、そういう人たちは何か簡単にそのような領域へ逃げているようで、辛くて不安というのも理解できるんですけど、もうすこし自分を孤高な立場において、自分を高めるための努力、自分を有利な位置へと導くための努力に時間を費やすことが出来ないだろうか? って考えてしまうんです。
人間が弱くなったなぁ、なんて言ったら怒られそうですけど、でも世界中にはもっと悲惨な人ってたくさんいるんですよね。
グーグルでバカになる?
読み書きは人間の本能ではなく、教育によって身につける能力なので、その過程は脳に影響を及ぼす。これまでは本や論文で長い文章を読むのが普通だったが、 コンピュータによって画面を「ブラウズ」するようになり、情報が断片化している。またデータを忘れても、検索エンジンで入手できるようになったので、記憶力が減退する可能性がある。
こうした変化は、古くからあった。ソクラテスは、「文字に書くと、人々は内容を忘れてしまう」と書物を記さなかった。ホメロスの叙事詩もギリシャ悲劇も、 暗誦して伝えられたものだ。韻文は、その記憶を容易にするための技法だった。グーテンベルクが活版印刷を実用化したとき、カトリック教会はそれを神の教え を広める技術として歓迎したが、印刷された聖書は教会による知識の独占を崩し、宗教改革や宗教戦争の原因となった。( グーグルでバカになる? )
自分で考える前にググっていませんか?
日本の学生の勉強に対する態度なんてそんなものなのかも知れないが(それはそれで憂うべき話だがその話は別の機会に)、少し心配になるのがどんな気持ちでその手の「コピペ」をしているのか、という点である。確信犯的に「徹底的に手を抜きたいからコピペしているだけ」ならまだ許せる。私が問題視するのは「自分で考える前にまずググる」習慣であり、「ググれば答えが見つかるにちがいない」という錯覚である。
暗黒時代とも呼ばれる中世ヨーロッパで科学の進歩があんなにも長い間低迷した原因の一つは、あの時代の人たちが聖書に書いてあることすべてを絶対的な真実として受け入れてしまい、自分で考えることをやめてしまったこと。地動説を主張したガリレオが弾圧されたのも、天動説を絶対的な真実として受け入れて思考停止をしてしまった社会のなせるわざだ(このあたりの話に関しては、「 古典力学の形成 」に詳しく書いてある。ちなみに、この本は理科系の人たちにとってはすばらしいエンターテイメント)。
問題は、上に書いたように自分で考える前にググって「手っ取り早く答えを見つけてくる」ことを習慣的にやってきた学生が社会に出た時に、ちゃんと自分で考えることができるのだろうか、ということ。自分で考える努力をせず、ネットで見つけた情報を頭から信じて行動することは、聖書に書いてあることを 頭から信じ込んで思考停止をしてしまった中世ヨーロッパの人たちの行動と同じだ。( 自分で考える前にググっていませんか? )
InformationとIntelligenceの違い
要は自分で考えることができるかどうか? ということが大事なわけでグーグルで手に入れたデーターからさらに思考をめぐらせて真実へとたどり着けるかどうかでその人の知性が問われる、ということなんだと思う。
データーとは所詮、誰もが手に入れることのできるインフォメーションとわきまえ、そこからインテリジェンスへともう一つ先に目を向けるのである。
それが知性となり、自分を有利な状況へと導いてくれると思うんだけど、どういうことかというとねぇ、例えばある山を見てその山の名前を知っている人と、実際にその山がどんな状態かを知っている人では知識とか情報の量が違ってくるんだよね。
あの山にはあそこに沢があって、川が流れているとか、よく動物をあの辺で見つけるから獣道も多いとか、山の形状を見て天気がどのように変わりやすいとかを判断できる情報を持っている人に比べて、じゃぁ単にその山の名前だけを知っている人よりもどちらがどれだけ具体的なリアルな情報を持っているだろうか?
グーグルで山の名前を調べる、ということは誰もが手に入れることが出来るデーターを手にすることであって、もっと具体的な情報、リアルな情報は自分で実際にその山に行くとか、その山に詳しい人に話を聞くとかして自分の情報へと取り入れていく作業なんだよね。こういうところでこれからは個々の差が出てくると思うよ。
自分を有利な立場へと導く
Knowledge is power. というのは本当で、そのパワーはインテリジェンスとなり、自分を有利な立場へと導いてくれるんだ。自分を有利な立場へと、と書いたけれど言い換えれば、異なる環境へ対応していく能力とでも言おうか。
このような状況になったときには自分はこうすればいい、こうなった時にはこの様な選択肢を自分は持っているから大丈夫だ、とこういうところから自分自身に対するパフォーマンスの信頼が生まれるんじゃないかなぁ? 人間は情報がないと不安になって暴力的になるんだよ!
キレる子供、キレる大人、キレる日本社会
10年前、教育現場では神戸事件を受け、「心の教育」が問われながら、ナイフを使った少年の事件が相次ぎ、突然「キレる」子供の問題が深刻化した。家庭や 学校のしつけ・指導力低下が顕著になり、識者からは「挫折に弱い」「過保護」など、この世代が受けた教育の弊害を指摘する声もある。(鵜野光博)
「ヤンキー先生」の通称がある参院議員の義家弘介氏は、平成11年から務めた北星学園余市高校で、加藤容疑者と同世代の生徒を受け持った。
「幼少期から『個人の自主性が大切』『校則はいけない』『詰め込みは悪』という教育にどっぷりとつかった世代」と振り返る。
また、「プロ教師の会」を主宰する日本教育大学院大教授の河上亮一氏は「家族でも友人関係の中でもいいが、ありのままの自分を受け入れてくれるホームグラウンドがあるかどうかが重要だ」と話す。
「ホームグラウンドがあることを前提に、社会に出れば思うままにならないこともあることを、言い聞かせて育てる。加藤容疑者にはホームグラウンドがなかったのでは」
平成10年1月、栃木県黒磯市(現那須塩原市)の中学校で、当時13歳の男子生徒が女性教師をナイフで刺殺し、翌月には東京・亀戸で、パトロール中の警官が15歳の少年にナイフで襲われた。「キレる少年」は社会問題に。これも加藤容疑者らと同世代だ。
明星大教授の高橋史朗氏は、事件を起こした少年らに共通する点として「知能指数は低くないが、対人関係能力と自己制御能力という『心の知能指数』が低い」 とし、「教科の基礎基本は考えても、人間として社会人としての基礎基本という観点が教育界から抜け落ちていた」と話す。
「自尊感情や他人の痛みが分かる心が育っていない。他と切り離された『個』の自立を重視し、他者とのつながりの中で生かされている自分を発見し、社会に参画する力を育てることをやってこなかった」( 【秋葉原通り魔事件】「酒鬼薔薇」世代、教育の落とし穴 )
外側の自信、ベルトコンベア社会
戦後暫くの混乱期はともかく、高度成長期の日本は所得の拡大や電化製品の普及、科学技術の発展、などなどの只中にあった。この時代、もしも個人の内側に自 信を蓄積できなくても、日本社会が高度成長していく限りは、あたかも社会を自分の一部であるかのように体験可能だったのではないか。
東京オリンピックや新幹線の開通といったイベント、電化製品の普及と生活水準の 向上、といった諸々は、発展する日本社会を自分のことのように体感するうえで大いに役立ったとも推測する。自分の暮らしている社会全体が猛烈に発展してい る最中であれば、自分自身がその社会に包まれている事・その社会に自信と誇りがみなぎっていることを、間近なものとして体験しやすかったと私は想像してい る ( 社会から爪弾きにされていない限りは ) 。
多少、相対的な貧しい境遇に置かれていたとしても、成長する社会に “ 外側の自信 ” をアウトソーシングし、社会がきっと自分達に豊かさを保証してくれるとも信じられるなら、人は勤勉に、誇りをもって生きていくことが出来たんじゃないか。 団塊世代の皆さん、いかがですか。
ところが、超氷河期世代では話が変わってくる。まず、彼らには会社との蜜月関係が無いので、会社の自信をあたかも自分の一部のように感じ取る機会があまり無い。会社と個人との関係が、一蓮托生というよりは割り切った契約関係へと移行し、終身雇用制という神話が過去のものになった時代において、会社の自信を “ 外側の自信 ” として我が事のように体感することは相当に難しい。まして派遣社員や契約社員も沢山いる時代である。暫時の契約社員の身分で「トヨタの誇りは私の誇り」などと思いこむのは殆ど不可能だ。かつての企業精神は、時代の流れや契約関係の変化のなかでとっくの昔に形骸化している。
自分自身の内側にさほど自信を蓄積しなくても、社会や企業を通して自信や誇りを体感できる日々加えて、日本社会そのものに “ 外側の自信 ” を重ねることも不可能になってしまっている。 バブル経済の崩壊以後、超氷河期世代は社会から力強いイメージを受けとる機会もなく、むしろある種の閉塞感のただ中を過ごさなければならなかった。
高度成長期の力強い日本社会とはほど遠い、不景気で、援助交際やら何やらのはびこる、世紀末の気分のなかで社会というものを噛みしめなければならなかった。社会全体の生活水準もさして向上せず、むしろ忙しさと息苦しさの拡大再生産ばかりが目につく状況では、社会に対して “ 外側の自信 ” をアウトソーシングするなんて無理だろう。社会は自然に発展して僕らを豊かさへと連れて行ってくれる、などという保証も与えられない状況のなかで、就職超氷河期世代が ( 団塊世代が高度成長の時代にそうであったように ) 勤勉に、誇りを持って生きろと言われても、もう “ 外側の自信 ” を社会に期待することは出来ないのだ。
しかし自分自身の内側に自信を蓄積させる、というのは言うほどには簡単なことではない。いわば自信の自己責任制のようなもので、自信や誇りが持てないとしても誰かがそれを保障してくれるわけではないのだ。コミュニケーションや仕事先などで自信を獲得できない個人には過酷な時代になったといえる。
とりわけ、超氷河期世代は “ いい企業に入っていい仕事が得られれば幸せになれる ” という高度成長期の信仰をまだ期待しながら社会に漕ぎ出し、しかも就職難に遭遇したわけで、はじめから “ 自信は自分の内側に育むしかない ” という割り切りが出来ていないにも関わらず、自信をアウトソーシングできない環境に曝され続けている 。 この世代の少なからぬ割合は、 “ 内側の自信 ” を自ら養うしかないという割り切りも出来ないまま、かと言って “ 外側の自信 ” を企業や社会から得られるわけで もないまま、企業や社会が “ 外側の自信 ”“ 外側の誇り ” を提供してくれない事に苛立ちや怒りを忍ばせているようにみえる。
一見自信に満ち溢れているようにみえて、自信のうちかなりの成分を社会や企業といった “ 外部の自信 ” にアウトソーシングしていた団塊世代。自分自身の内側にさほど自信を蓄積しなくても、社会や企業を通して自信や誇りを体感できる日々を過ごすことが出来ていたとするなら、彼らは幸福だったといえる。
団塊世代は物質面では ( 特に戦後暫くは ) 恵まれなかったが、この “ 外側の自信 ” の体験に関する限りは非常に恵まれた世代だったと私は思う。一方、超氷河期世代は、物質面では最高に恵まれていたけれども、社会や企業を通して “ 外側の自信 ” を我がことのように体感するのが困難ななかで育てられた。
一個人にとって、自信の有無や誇らしく生きていけるかどうかは、心象風景全般に大きな影響を与えるファクターだが、このファクターに関する限り、超氷河期世代は団塊世代よりも遥かに貧しい状況を生きている。そんな超氷河期世代が、団塊世代の人に「お前も自信を持てよ」「最近の若いモンは滅私奉公を知らない」といわれたとしても、「だったら俺達にも、終身雇用を保障しろよ、高度成長の一体感をよこせよ」と言いたくなるのも、致し方ないなと思う。( 自信をアウトソーシング出来た団塊世代と、それが出来ない氷河期世代 )
超近代的狩猟社会
これからの社会は自分で自分に必要な知識なり情報、スキルを能動的に取り入れていくことができないとその個人はずーーーと不安な状況から抜け出せないと思う。
与えられるのをただ待っているっていうのは楽だけど、自分ではコントロールできないからやっぱり不安だよね。超近代的狩猟社会、というタイトルはそのような意味も含めてつけたんだけど、どう思いますか?
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