「 激動2009年、経済の行くへ – 世界はどこへ、そして日本は 」、「 激動2009年、外交政策 – 世界はどこへ、そして日本は 」、と続けてきた最後のトピックは日本国内問題でした。中々興味のある内容でして、今回は2回に分けて発信したいと思います。
1回目が「グローバル化、日本の選択は」という感じの内容でして主に海外へ打って出ていく日本のコンテンツ事業などに興味を惹かれましたのでそのことについて書いてみようと思います。
2回目は「内向きになる日本の若者」という内容のことを取り上げており、こちらも興味深く見させていただきました。グローバル化、日本の選択は – 世界に合わせるのか、それとも日本独自を選択していくのか?
東芝の選択
まずは 原子炉の世界的な販売、構築を目指す東芝がアメリカの企業 ウェスティングハウス・エレクトリックを買収した話から番組の物語がスタートします。
海外に打って出る日本、大手電機メーカーの東芝は2006年2月、ウェスチングハウス買収。グローバルに生まれ変わり、世界標準な技術力と国際的な販売網を手に入れるのが狙い。
アメリカ企業の力が東芝を引っ張る。日本流にこだわっていては生き残ることができない。徹底してグローバル・スタンダードを取り入れる戦略です。東芝の西田厚聰社長曰く、”アメリカのグローバル企業の買収がそく我々のグローバル事業の展開ということと結びついている”、と。
アメリカやヨーロッパ市場を展開していく目的などもありますが、これらのグローバル企業が狙っているのは新興市場を開拓、原子炉の販売、構築が本音だと思います。
インドではすでに GEが原子炉の分野に参入していますし、今後、 BRICsはじめそのほかの新興国にあらたな電力供給源として原子炉の展開を提案するのが目的だと思われます。
日本の良さを見つめ直す
一方でグローバル化の時代だからこそ、日本の良さを見つめ直すべきだという意見もあります。
日本を代表する建築家の安藤忠雄さん、海外のおよそ30カ国で大型施設の設計に取り組んできました。
安藤忠雄さんは、世界で存在感を示すには日本人の特性を生かすことが鍵だと考えています。曰く、”
日本人の良さは忍耐力とか協調心
上手くチーム作りができている
繊細で神経が行き届いています
清潔で礼儀正しく、物作りに現れていく
日本は世界に発信するものをいっぱい持っている“、と。
こういうことを言えるのは 安藤忠雄さんの立ち位置によるアドバンテージの結果見えてきたものだと思います。
日本は世界に発信できるものをいっぱい持っているというのは僕も共感できます。最近のクリエーターを見ていてもとてもユニークですし、若いクリエーターたちの作品を見ることができる NHK 「 デジタル・スタジアム 」は僕のお気に入りで毎回楽しみにして観ています。
まぁ、一般にいうと多くの人に知られている日本のコンテンツ事業といったら日本のアニメやゲームでしょうが、ついにここまできているのか、というものを番組では紹介していました。
Dragonball Evolution
今年世界中で公開される予定のハリウッド映画、原作は日本のベストセラー漫画( ドラゴンボール)です。日本のアニメや漫画は今、世界を席巻する勢いです。
実写版とは ハリウッドらしい考え方というかやっぱりなぁ、という感じです。日本は予算がないからアニメを通して表現する、とはよく言われますし、役者の質なども海外の俳優さんのほうが実力は上です。
[quote1]
アメリカというかハリウッドというか、 Jewish というか、は予算が豊富なのでいろいろな技術を利用して新しいものを作ろうとします。 バットマンや スパイダーマンの例からもわかるように、元の発信はコミックだったけれど、映画制作では人間を使ったものへと適応させていく。
リアルな人間を使わないと、映画という娯楽が社会の一部になっているアメリカでは受け入れられないという感覚もあるかと思います。どういうことかといいますと、娯楽としての映画が社会の一部というのは、犯罪もの、戦争もの、社会的ドラマ、アクションからコメディーにいたるまで、映画そのものの感覚、映画の中の背景やストーリーが普段のアメリカ社会のどこかで起こっている日常生活の一部を切り取ったような感覚なのです。
だから多くの人が映画のワンシーンやセリフ、表情、しぐさ、行動などに共感するわけで、それが多くの人を映画に惹き付ける要因になっている思います。
オタク、コスチューム、アニメ
知らなかったんですけど去年、ニューヨークで「第2回ニューヨーク・アニメ・フェスティバル」という催しが開催されたんですね。
今回2回目となるニューヨーク・アニメ・フェスティバルが9月26日から28日までジェイコブ・ジャビッツセンターで開催された。メーンはアニメ作品で、「科学忍者隊ガッチャマン」のキャラクターデザインほかで知られる天野喜孝さんやホラー / SF小説家の菊池秀行さん、料理の鉄人で知られる森本正治さんらの講演やサイン会が行われた。そのほか、マンガ、コスプレ、TVゲームなどアニメカルチャーや日本のポップカルチャーが広く紹介され、天尾ヨシさんらによる気合の入った殺陣のショーには大きな拍手が送られていた。(ニューヨーク・アニメ・フェスティバル開催~コスプレに熱中するアメリカ人)
会場には紀伊国屋書店、テレビゲーム大手のコナミなど世界から125社・団体が出展。全米からアニメの主人公などのコスチュームを着たファンや漫画家、ゲーム会社代表らが集まった。初日の来場者は昨年に比べ2割増加しており、フェスティバルを企画した企業のランス・フェンスターマンさんは「(日本のポップカルチャーは)アートとしても注目され、アニメや漫画を中心にビジネスとして拡大していくだろう」と話した。(NYでメード喫茶、コスプレが人気)
Do As Infinity
このフェスティバルには足を運んでいないですが、似たような感覚を経験したことがあります。
日本のポップバンド「 Do As Infinity 」がニューヨークへ来て、無料ライブを「 The Cutting Room 」で開催したときのこと。確か2004年6月7日頃だったと思うんですけど、グーグルで調べてみたらその年の「 Do As Infinity 」ツアーの様子が、 DVD として発売されていることがわかりました。「 Do As Infinity LIVE YEAR 2004 」
入場無料ということと、「 Do As Infinity 」の曲をいくつか知っていてお気に入りだったので、出かけていったのを覚えいます。会場はもちろん日本人がほとんどでしたけど、一部地元の人たち、アメリカ人も混じっているんですね。
随分と人気者なんだなぁ、ここアメリカでも、と思っていたら「 Fukai Mori ( 深い森 ) 」の曲の時、大声で一緒になって歌っているじゃないですか、そのアメリカ人たちが。これにはびっくりしました。なんで知っているのだろうとそのときは不思議に感じていましたけど、こっちで何かのドラマとかに使われていたんですかねぇ?
Googleで調べてみると、ちゃんと英語のウィキペディアにも彼らの項目が載っています。(Do As Infinity)
2004年といえばまだ YouTube がない頃ですから、どのようにして彼らは情報を得ていたんでしょう?
今はほとんど日本のアニメ、漫画がそのまま海外へと流れる時代です。海外の検索で一番ヒットされる検索キーワードはなんと日本のアニメに関する言葉だとかいいますから、それほどの需要があるというか多くの人が知りたがっている情報なんでしょうね。またもう少し深い意味で言ったら、日本のアニメ以外の情報を発してこなかった日本側にも責任はありそうです。日本政府などが 観光庁 などを立ち上げたみたいですけど、遥かに民間というか一般人の中からそれらを凌ぐ動きが出てきています。
TokyoMango
[N] 「 TokyoMango 」 Weblog Awards の “Best Asian Blog” ファイナリストに
「TokyoMango」のことを知ったとき、あぁ、先にやられたという思いと、同じことを考えている人がやっぱりいたなぁ、と思いました。先に安藤忠雄さんが日本から発信するものがたくさんある、とおっしゃっていましたがその通り、海外の外人さんの視線から見ると不思議というか興味のあるものがいろいろと存在するんです。
一部のオタクに人気があると思われる フィギュアなどのサイトも立派に存在しています。(Dannychoo.com)こういうことを発信しているのは日本人以外だったりすることが多く、如何に日本人が英語などの手段を利用して外へ向けて発信してこなかったか、ということの現実でしょう。
鉄腕アトム
日本の原作の良さを活かしながら世界で売れる作品をどう作るのか? 日米共同で鉄腕アトムを映画化するプロジェクトです。原作の可愛いアトムの顔をハリウッド側は当初大人っぽく変えようとしました。日本側(手塚プロダクション)は大反対、ハリウッドの言いなりにはならず、原作の思いや日本的な感性が大事だと議論を重ねました。
“首の細さとか長さとかってどう思います?”、結局アトムの顔は日本側の意見を取り入れたものになり、現在映画化の最終版を迎えています。
手塚プロダクション、清水義裕氏曰く、”ハリウッド経由、ハリウッドのメジャー経由で世界に行くと、言うのは、これからの21世紀の物作りの仕方として、アジアからの発信性みたいなものも大いにあるべきだな”、と。(鉄腕アトム - Astro Boy)
鉄腕アトムの ハリウッドでデザインされたものと日本のオリジナルの鉄腕アトム、まったく違います。一般に言えることですけど、日本のコミックとかの登場人物の表情、幼稚、幻想的というのが外国人から見たときの印象なんです。それが日本ではアニメそのものの捉え方が、大人も楽しむもの、広く社会に受け入れられている、というような現実感があります。
アメリカでは大人はコミックを読まない、コミックは子供のものという社会的なコンセンサスができていますし、大人用のコミックを作る場合、ある程度主人公の表情が現実的なものになるのは致し方ないのかもしれません。
日本のアニメブームというか大人の社会を巻き込んでの社会現象となるときに思い出す文章があります。日本の漫画を肯定する動きがあることは承知していますし、ポジティブに与える影響の大きさもわかっているつもりですけど、漫画的な要素が与える社会のネガティブな部分も認識してほしいと思います。
マスコミに携わるジャーナリストに、作家に、クリエイティビティーがない。本当をいえば、個人の創造性などというのは、元来リミットのあるものなのだ。だから、それ以上のものを作るには、社会との接触を欠かさず体験を積み重ねなければならないのだ。感性だけではダメだ。体験から得たクリエイティビティーを蓄積していかなければ、最終的には行き詰ってしまって、何も表現できなくなる。
体験というのは、社会に対してアクションを起こすことだ。それによって、自分が刺激を受ける、ということだ。それをしないで、社会の上っ面だけを眺めていても少しも変わらない自分の、きわめて小市民的な発想だけしか展開されない。これはまるで漫画の世界だ。メディアを担う表現者の、責任感がまるで感じられない。
漫画の話が出たついでにいえば、これだけ活字文化の質が下がったからこそ、現在のコミック・ブームがある、ともいえる。オレは、電車の中で恥ずかしげもなくジャンプだ、マガジンだと漫画本を読んでいる連中が大嫌いだ。
このことは以前にも書いたが、彼らが50歳、60歳になってもそれを読み続けるのなら、この国は悲惨だ。漫画なんてのは、いわゆる子供のものだ。人間として成長しきっていない、未完成なメンタリティーに直接訴えるメディアだ。
漫画そのものが低俗だとはいわない。が、その方法論が直截でストレートに過ぎるということは、大人には向かない、ということなのだ。
子供が「鉄腕アトム」で科学や人類愛を感じるのを否定はしない。しかし高等教育を受けた人間が、漫画からしか何かを感じ取れないとしたら、あまりにもなさけない。
手塚治虫が死んだとき、同業の石ノ森章太郎が寄せたコメントが興味深い。
「手塚先生は、自ら漫画を描きながらも、それでも現在のコミック・ブームには批判的な意見を持っていました。若者が電車の中でコミックを読んで恥ずかしいと思っていない、本来なら、哲学書でも読むべき世代が、これではと嘆いていた」と、そんな内容だった。
手塚がいたから、日本に漫画文化が根付いた、といわれる。その彼でさえ、若者の漫画汚染を、憂えていた、ということの意味を、ぜひ考えてほしいと思うのだ。
つまりリクルート事件の解明に自分は責任を果たしている、と臆面もなくいう新聞記者も、ネコを主人公に何十本もの同工異曲の作品を出して食っている流行作家も、漫画こそ文化だ、と信じてそれを体から離せない若者も、実は同じ ” 根っこ ” を持っているということだ。
創造力のない、ダイナミズムに欠けた日本社会の、恐るべき危機が、そこにある。(落合信彦 著「狼たちへの伝言〈2〉
」、手塚治虫 の嘆き)
トーマス・フリードマン著「フラット化する世界(上)
、フラット化する世界(下)
」を読むとアメリカも日本と同様、数学や科学の分野での衰えが目立つようです。 NASA ( アメリカ航空宇宙局 )の事情など現実問題としてアメリカにも若者の数学、科学離れが問題になっています。
アメリカの若者が日本のオタク文化(こっちでは日本ほど否定的な目を向けられません)にあこがれて真似するのはいいんですけど、アメリカでもアニメが若者に指示される背景として日本と同じようになってきている、つまり若者の活字離れがアメリカでも起こっているんじゃないかと想像します。
漫画に対する認識
アメリカやヨーロッパじゃコミックは、かなり教育レベルの低い者、子供や文字の読めない人間の見るものなのだ。いい大人は決して読まない。ましてや、通勤電車などで熟読している姿など、会社の上司にでも見つかったら、即降格、下手をしたらクビだ。コミックとはそういう類の雑誌なのだ。
オレは先日、メキシコに行ってきた。メキシコの地下鉄は次の駅の表示が絵で描かれている。例えば次の駅に闘牛場があるとするなら闘牛の絵が描かれているというわけだ。なぜか? 字の読めない連中にそれを正しく伝えるためなのだ。
見ればわかる。それが絵だ。漫画も同じ。文字を読むよりも簡単だし、見たまんまでそのままが伝えられるメディアである。
日本という国が、どうしてここまで栄えてきたかといえば、教育水準が高かったから。文盲率が世界で一番低かったからだ。それが、なぜかここにきて文字や活字よりも漫画、コミックなのだ。それも、まるで発展途上国並の勢いで、だ。
朝から晩までくだらない番組を流し続けているテレビの影響で、文字そのものは読めるけれど、それ以上が読めない人間が増えてきてしまったような気がする。小説であれば、その表現の裏側に込められた意味なり、雰囲気なり、ニュアンスなりを読まなければならない。しかも、自分の人生経験や教養で得た想像力を武器としてだ。その作業なくしては、何のイメージも湧かなければ、面白くも感じられない。
それをしたくない、それができないから、イージーに漫画を読む、という図式なのだろう。
活字よりも漫画が、というこの事実は、この国の文化水準というものを考えるうえで、何か危険な傾向のあらわれ、と思えてならない。
漫画もスポーツ新聞もエロページも、分類すればけっして現実ではない。あくまで非日常の単純な世界だ。読むのに頭を使う必要がないから、無責任に自分を没頭させることができる。だが、それを読んだからって何が残るわけでもないし、何が生み出されるものでもない。
そういう、ただの暇つぶしの対象でしかないのが漫画だ。クリエイティビティーの一切がない。(落合信彦 著「狼たちへの伝言
」、危険な傾向)
[quote2]
文字そのものは読めるけれど、それ以上が読めない人間が増えてきてしまったような気がする、という部分が非常に気になっていたのがこの本が出版された頃のことですから、もう20年ぐらい経ちますかねぇ、あれから日本社会はどのようなことを経験してきたのでしょうか?
長いものの見方でものごとを進めてきた例があるのでしょうか? それ以上が読めないというニュアンスは近視眼的なものの見方、真実という物事の本質を知ろうとする努力よりも、事実だけを詰め込む日本的教育のあり方などに通じるものがあると思いませんか?
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