品格、相手に対して礼を、その1 – 人間的に貧しくなるな!


品格、相手に対して礼を、その1 – 人間的に貧しくなるな!

実はニューヨークに来たばかりの頃、一時期誠道塾誠道空手を習っていた時期があったんだけど、その誠道空手の指導姿勢にえらく感心した覚えがあったので、朝青龍問題が風化してしまう前に誠道空手会長中村忠 (空手家)氏の教えをここに紹介してみようと思う。

エッセンス自体は中村氏著書「人間空手」に収まっているものなんだけど、アマゾンで検索しても出品者からお求めいただけます、となっていて値段もべらぼうに高くなっている。

僕としては本当に素晴らしい内容が多く綴られていて、たくさんの人の目に触れられてほしいという思いから今回、中村氏の考え方、空手道とは、武道とは、どういうことなのか、心を大切にするとはどういうことなのか? 日ごろ人間的に貧しくなりたくはないなぁ、と考えている僕にとっては何度読み返してもその都度、自分のぶれそうな心を初心に戻してくれる素晴らしい著書である。

日本人の心の過程、道とはどういうものなのか? すでに過去のものになってしまったのか、それとも今を生きる日本人の心の中にも宿っているものなのか? 中村氏の考え方は大いにそれらの解を求める際の道しるべになると感じているし、朝青龍問題は相撲界だけの問題ではなく、日本人すべてに関わりがあることと言っても大げさなことではないであろう。

極真会館を破門され海外で一人日本の文化、空手をここまで育て上げた人物中村氏が海外からの視点でものを語るとき、逆に日本という空気に触れてこなかった分だけ過去の凛々しかった頃の日本文化を素直に継承し続け、歪んでしまった本筋、日本本土に存在し続けた日本文化をおかしい、と発言することは皮肉であろうか?

力より技、技より心

誰でもそうだろうが、若いときには何をするにもついつい力に頼りがちだ。もちろん、空手を覚えるためには力も大事である。いくらやる気はあっても、力がなければ空手は強くならないし、技も身に付かない。過不足なく空手の技量を高めていくためには、やはり充実した体力が欠くべからざるものになる。

だが、空手を志す人間ならば、それだけが空手の生命ではないことを肝に銘ずべきである。力があるから強いんだ、力があれば勝てるのだ、という考え方は間違いである。体力的に優れているものすなわち優れた空手家ではない。あくまでも力は基礎に過ぎないのである。

力は空手の土台である。土台があるから技が理解できる。技が理解できるから、それを磨くことができる。力に技が備わって、ようやく空手家としての両翼が揃うことになる。

けれども、ここで「だから俺は最高だ」などと思ってはいけない。ただ力と技があるだけでは空手家としてアンバランスのそしりを免れない。空手家にとって最も大切なもの、それは「豊かな心」である。

「豊かな心」は、戦いの中でも、最も適切な力のコントロール、技のコントロールを可能にする。どのように訓練を積んだ空手家であっても己の感情をコントロールすることができなければ使わなくてもいい力を使い、しなくてもいい動きを繰り返し、必要以上に体力と気力を消耗する結果になる。しなくてもいい喧嘩をしたり強さを見せ付けるような行為に出るのも同様の原因からである。

結局、それらは心が伴わないために起こるのである。最終的には、心の問題そのものに他ならない。私が空手家にとって一番必要なものは「豊かな心」であるとする由縁がここにある。

だからといって、力がなくてもいい、技がなくてもいいといっているのではない。私にいわせれば、空手は「動く禅」なのである。澄み渡った心をもって、よく鍛えられた肉体を統御し、研ぎ澄まされた技を繰り出す、それこそが空手の本義であると私は考える。

空手家の部分を横綱と置き換えてみてはどうだろうか? 体力的に優れているものすなわち優れた横綱ではない。横綱にとって最も大切なもの、それは「豊かな心」である。あるいは空手の部分を大相撲と置き換えてみてもいい。澄み渡った心をもって、よく鍛えられた肉体を統御し、研ぎ澄まされた技を繰り出す、それこそが大相撲の本義である。

空手と大相撲を一緒にすることに違和感を感じるだろうか? 同じ武道、心の武道であるはずであるし、いつから大相撲は空手道や柔道、剣道、合気道、といったように道とは名のつかない日本の国技に発達してしまったのか?

過程こそ重要である

私は「過程」こそ重要であると強調したいのだ。最終目標だけがすべてではない。目標に至るまでの過程、そこにおける難問に取り組む姿勢、自分との葛藤に打ち勝つ気持ち、それこそが一番大事なことなのだ。最終的な結果とは、その姿勢の中から出てくるのである。

空手の修業をするにしても、結果だけを重視していたならば、結局は勝ち負けだけの空手になってくる。明らかに間違った選択である。結果にとらわれることなく、いろいろな困難を乗り越え、目標までの過程に如何に対処していくか、如何に自分の人間としての修業をしていくか、をつねに問い続ける、そのときに生じる己の考え方の揺れ動き、心の振幅、それを経験することこそ、空手の修業から得られる宝なのだ。

いってみれば、そうやって自分が苦労して、真剣に考え、悩んで、葛藤して、そして工夫していくことが、人間には大変に重要なことなのだ。そういう経験の積み重ねから何らかの結果が生じるのであって、それがその人の人格形成に大きなプラスになるのである。

私は、すべての人たちが、「過程」を大事にすることから、より素晴らしい結果が出てくるという真理を信ずるべきだと思う。

一つ間違えた方向性に行ってしまった原因として考えられる要素があるとすれば、それは勝負の勝ち負けに金銭が絡んできてからではないだろうか? 確かに金銭的なモチベーションは力士にとっても、いや他の多くの格闘家にとっても魅力あるものであることは充分に認識できる要素ではあるが、それがすべてではない!

いや今の殺伐とした世の中、お金がすべてではない、と言い切れないところにジレンマがあるのかもしれない。空手道や柔道、剣道、合気道は技、強さといったフィジカルな部分が強くなることを目標と掲げる一方で、心の潔さ、純粋さ、礼儀正も求められるものなので、大相撲にこれらの事柄、特に心の面をすべての力士に要求することは無理なのだろうか?

歳を取ってからも続けられる多くの武道に比べ、大相撲や多くの格闘技は精神的なものを求めること事態が次元の違う話をすることなのかもしれない。でもそれではいつまでたっても心の逞しさを力士や格闘家に求めることは無理になる。

過程を重んじることなく疎かにしても結果勝てばいい。稽古に励まなくても今の俺の実力ならば優勝できてしまうし、できてしまっていた朝青龍。結果がすべてだったし、日本人も、日本社会も結果を出している人物に対して心を説くことができなかったのは、道という心の拠りどころを多くの日本人が忘れてしまったからではないだろうか?

過程における葛藤が人間を強くする

では仮に、大変努力はしたけれども、体力的な問題などもあって、結果としては大きな目標に到達できなかった人がいたとしよう。私はその人を立派であると思う。

一つの例として、才能があったために何の苦労もなく、ラッキーにある程度の目標に到達できた人と、いろいろな困難に出会い、悩み、苦しみながら漸く一つの目標に到達できた人がいたとした場合、差が出てくるのはもう一段上の目標にぶつかった時だ。前者は最初何の苦労もなくいったから、今度も簡単にやれるだろうと思って、気軽に何の努力もせずにことにあたるだろう。

簡単にやれたということが気持ちを甘くしているのだ。「俺はたいして努力もしないでやれた、それだけ運もあるし才能もある。だから今度もきっと上手くいくに違いない」というわけだ。しかし、後者は努力することを知っているから、「今度はダメかもしれない」と思いながらも、またもう一度頑張る。「過程」における葛藤が、それだけ人間を強くしているのである。

こうした両者を比べた場合、人間形成の上からは、前者は後者に比べて遥かに落ちることになるだろう。すべては苦しみ、痛い思いをし、苦労し、そこから「いやだなぁ」と逃げるのではなく、この苦しみも悲しみも自分自身を鍛えるのに役立つのだと思い、それを自分にとってのまたとないチャンスであると考え、精一杯努力することから始まるのだ。

だから、たとえ、結果的に前者は名声を得て、財産を築き、後者は一生無名のまま、大した財産にも恵まれずに終わったとしても、人間としての価値は遥かに後者のほうが大きいのだ。空手の修業においても、このようなことは十分に考えられなければならない。

朝青龍の進退問題で解雇を突きつけた相撲協会の姿勢は将来の朝青龍のためを思ってしたことも含まれているとしたら長期的にみればそれらはプラスとして将来、跳ね返ってくるかもしれない。苦労なく勝ちを収め続けていた朝青龍にも間違いなくこれからの人生、様々な困難に出会い浮き沈みの多い人生の歩みを経験することになるであろう。

過程における葛藤。若いときには体力もありフィジカル的にも優位性を保てる場面も多々あるであろうが、歳を重ね自分にかつての体力がなくなり始めたとき、その人の強さが生きる上で試されるのは心の頑張り度、挑戦してみようという逞しい精神力をどれだけ自分に蓄えてきたかにかかっているのかもしれない。

金銭的なモチベーションが高い環境で精神的なものを求めるのは無理があるのかなぁ・・・精神的な拠りどころは強くなればなるほど、求めれば求めるほど最終的には自分にかえってくる。自分の心の鏡が奇麗な状態であるのか、何かの心の状態によって虚栄心とか心の鏡が曇っているのか?

フィジカル的な強さは外に向けて発信し続けていけば、いや発信続けていかない限り金銭的な見返りは期待できない。多くの格闘技がビジネスになっている今日、金銭的な見返りは相手を倒せば、自分が誰よりも強ければ、というモチベーションを高めている。

人の道を歩むとは

この頃は「道」というものを説く人がいなくなり、そんなことを言うとすぐ抹香臭いといわれるけれども、やはり空手は「道」なのである。生まれてきた以上、人はどのようなことがあるにせよ、正しい道を歩まなければならない。では正しい道を歩むとはどういうことかといえば、それはとりも直さず自分に与えられた困難から逃げることなく、立ち向かっていくことなのである。

人の道を歩むとは、すなわち「過程」を大切にすることに他ならない。それ故にこそ、空手を学ぼうとする人たちは、日々の稽古において「過程」を大切にしていってほしいと思う。長く空手の指導に携わってきたものとして、切にそう願うのである。

大相撲や多くの格闘技の世界でも空手道や柔道、剣道、合気道と同じような道を説くことは無理なのだろうか、価値の無いものなのだろうか? 勝って番付をあげろ、大関に横綱に昇進しろという動機の中に、「過程」を大事にしろという指導要領ではどこか矛盾している。金銭的なモチベーションが高い環境下で精神論を広めていくにはどうしたらいいのだろうか?

己を見つめる

山中の賊見出し易し、心中の賊見出し難し。

この言葉に象徴されるように、己の心を見つめ、己を磨くことは大変に難しい。だが、日々の生活が慌しくなった現代では、そのことがとても大事になってきている。忙しいから、苦しいからこそ、人間は己をじっくりと見つめるべきであり、困難があり、ストレスや心理的なプレッシャーがあるからこそ、人間は自分自身を静かな気持ちで観照し、心豊かにすべきなのである。

だからその一つの手段として、空手を通して自分自身を省察してみるのもいいし、寝る前に正座して、メディテーションのポジションをとり呼吸を整えるという習慣をつけるのもいい。静かに座る、ということが、自分を見つめる一つのきっかけになるのである。

とはいえ「静かに己を見つめる」というのはそう簡単なことではない。

「自覚覚他」ではないけれども、己を理解するためにはまず他人を理解しなければならない。そのためには、何よりも初めに、人間はお互いに共存しながら生きているのであって、すべての人間はその一員であり、人はいろいろな見えない関係で結ばれ、お互いに助け合うことによって社会が構成されているのだ、ということを知らなければならない。それが故に、自分を究めるには、他の人たちのことを十分に理解する心がなければならないのである。

「私だけが」「俺だけが」というのではなく、自分の置かれた環境、家族や友人の協力、神仏の御加護といった、すべてのものが自分を支援してくれていることに気付き、それらに感謝する心を持つことが大切なのである。

空手道や柔道、剣道、合気道、茶道に書道、華道は人々の生活の一部に取り入れやすい。それが精神的なことを求めても多くの場合、受け入れられる要因となっている。逆に言えば大相撲や多くの格闘技は、一般の人にとっては自分の生活の一部に取り入れることができない違ったものであり、エンターテイメント的要素、ビジネス要素を含んでしまった環境下では強いものがすべてなのかもしれない。

しかし、そこでの強者は社会に対して何らかの責任を背負うべきだと思う。金銭的な見返りを受けた部分としてのお返し、経済的な要素からの結果、自分の結果に対して報酬を受けたならばきちんとその源に還元していく。ではどのようにして?

それがヒーローのロールモデルなのである。社会人としての、スーパースターとしての、チャンピオンとしてのロールモデル。自分もあの人のように努力すれば金銭的な成功を、名声を収めることができる、といったモチベーションでも構わない。

社会も巨額の報酬を認めているし、受け入れてもいる。しかし、と同時に社会に対するその個人が示すべきロールモデル的アクションはさらに期待されていることは日本の社会ではあまり浸透していないのか、人々の理解の許容量として認知されていないのか、この部分はもっと大きな声でそれらスーパーヒーローに対しては求めても良いであろう。

だからその期待が裏切られたとき、社会はそのスーパーヒーローに対して正当性を自覚して攻撃する。最近のタイガー・ウッズがそうであったし、数々のドーピング問題を引き起こしたメジャーリーグの選手やそのほか、金銭的トラブル、ドラッグ、アルコール依存症に陥るヒーローたちも同じである。

精神的に強ければ、過程を大事にしていれば、それらの罠、人間は本来精神的に案外脆いから数々の誘惑に対しても豊かな心を駆使して困難を乗り越えていたかもしれない。そうするとやっぱりフィジカルな部分と同じように精神面でのバランスも重要ということが理解できるんだけど、今の社会、このような達観でことにあたるのは難しいのかなぁ・・・

短気短命

人は誰でも、自分の歩んできた歴史の中で、一度や二度は、「何で私はあの時、あのようなことをしたのだろう。何と馬鹿なのだ」と思ったことがあるだろう。間違いは誰にでもある。大切なのはその間違いを絶対に繰り返さないことだ。同じ間違いを繰り返すとき、人間の成長は止まる。それこそ「俺は馬鹿だなぁ」と本当に思わざるを得ない結果となる。

それを防ぐには、心を常に平静に保つことだ。「短気短命」というけれど、心の調整ができないと人間は思わぬ運命を呼び込むことにある。誰でもが、常に平常心でいられる人物になるべきなのだ。このことは、どんな年齢、職業の人においても、あえていえば人間としての一つの務めであると私は考える。

「まぁいいや」「しようがない」「私は神様ではないのだから」といつまでも成り行きに妥協し、自分自身を甘やかしていたら、人間は進歩しない。そうではなく、静かな心になって、「もう、こんなことはないように務めよう」と反省することが、人間には一番大事なのだ。それだからこそ、私はこのために空手が役に立ってくれたらいいと願う。

強くなるのでも、相手を倒すためでもなく、真摯に人生を生きる手助けになってくれるとき、空手の本当の意義が発揮される。「人生道」と「空手道」が結びついて、その人の歴史が有意義なものになってくれるのなら、私にとってこれに優る喜びはない。

人生道と大相撲、多くの格闘技は結びつくだろうか?

心を大切にすること

繰り返し恐れずに言おう。私の信念は、「心」を大切にすること、これに尽きる。それだけを考えて、私は長い空手人生を生きてきた。

できるならば、少しでも多くの人に、空手を通して正しい心、強い心、思いやりのある心をもって、空手で素晴らしいものを得たという体験をしていただきたいと考える。空手をやって健康になれた、感情をコントロールすることができるようになった、人に感謝する気持ちが生まれた、それでいいのである。空手に出会ったたくさんの人たちにそう思っていただけるならば、私にとっては望外の喜びである。

そして、そのような気持ちをもった人が増えたとき、きっと空手の未来にも光が射込み始めるのであろうと思う。その日が一日も早く到来することを、私は心から願う。

観ることも触れることも実感することもできない心、って質量にしたらものすごく重いだろう。


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