品格、相手に対して礼を、その2 – 空手道とは?


品格、相手に対して礼を、その2 – 空手道とは?

先のエッセイで、誠道空手会長中村忠氏の空手に関する考え方の一部を紹介したけど、今回はもっとそこから深めた話題、中村氏が理想と挙げる空手道とはどういったものなのか? その論理は空手だけに留まらず、多くの場面で、環境下で参考にできるものなので多くの人に何かを感じ取っていただければと思っている。

空手道とは(力より技、技より心)

私がメディテーションの授業を重視するのもやはり精神修養を重視する結果に他ならない。時には野外の環境で思い切り稽古させたり、また時には禅堂でじっくり座らせるのもこの現われだ。対称的ことをさせて、自分の空手というものをしっかりと見つめさせようというわけである。

結局はそれが自分の強さを磨くことに繋がってくる。

空手道とは簡単にいえば、いかに耐え忍んで自分を磨くかといくことである。そうした忍耐力は、自分自身をじっくりと見つめるところから生まれるのだ。

そして、一番重要なのは、そのようにして手にした忍耐力なり、自制心なりを何に生かしていくかということだ。いうまでもなく、空手を習う人がすべてプロになって道場を出そうとしているわけではないはずである。

とすれば、空手を習う大半の人にとって大切なのは、空手道を通して、いかに自分の日々の生活をより豊かに、健全なものにしていけるかということである。人生を豊かにするための一つの手段が空手道なのである。力より技、技より心を私が重視する最大の理由はこれである。

こうした観点に立つと、今の格闘技ブームは何とも薄ら寒いものに思えてならない。どうしてあのように「如何に相手にダメージを与えるか」「如何にして相手を殺すか」といった殺伐とした謳い文句が、あたかも流派のスタイルであるかのように語られねばならないのか。

そうして道場主たちは、組織を大きくするためにはやむを得ない、と反論するかもしれない。空手を習う人の立場を無視した道場の論理である。一旦口を開けば、それに輪をかけたように他流派の悪口ばかりが飛び出す。やれ「あんなのは空手じゃない」やれ「あの程度どうってことない」その繰り返しである。

けれども、商業主義に走ることによって、中身が薄くなって困るのは道場生の方なのだ。このような風潮が空手全体の衰退を招かないはずがない。

・・・中略

どだい人間は、三人三様、十人十色。身体の大きさも違えば、個性も違う生徒を相手に、「このやり方しかない」と四角四面の考え方でやっても通用するはずもない。

そこを誠道塾は、組手はこの段階から、それ以下はこんなプログラムがありますよ、というように大きな枠組みだけを与え、さらに最終的には参加する個人それぞれが、少しでも完成された人間に近づくことが目的である、と大きな目標を与えることでやってきた。いわば、流派のための空手ではなく、本当に空手を習う人のための空手を実現することができたのだ。

今でも私は黒帯をとった生徒によく言う。

「自分ひとりが頑張ったから黒帯になれたのではなく、一緒に稽古するみんなのお陰でそういう環境にいることができたのだと思わなければいけない」

そうしてこう続けるのだ。

「だから、それにどう感謝して、これから自分自身が社会にどう貢献していくかを考えなければ、君の空手が死んでしまうよ」

生徒たちも、この私の期待に積極的に応えてくれている。それぞれがいろいろな問題を抱えながらも、その中で必死に空手を続け、彼らが彼らなりに大成していってくれている姿を見るのは本当に嬉しいものだ。

だから、要するに、空手の修業を、それぞれが自分の一生の仕事だとおもえればそれでいいのである。芸術でもそうだろうが、空手を学ぶ人にとっても、空手がそれぞれにとってのライフワークにならなければならないのである。

何度でも言おう、空手は、力より技、技より心である。

格闘技ブーム、商業主義、と中村氏は随分昔から警告を発している。多くの格闘技の世界で歪んだ部分が表面化してきてしまったにも関わらす、力士が引退したら格闘技へ、柔道のメダリストが引退したら格闘技へ、という流れは益々目立つものとなっている。

人間空手(尊敬・愛・従順)

「そうだ、誠道塾の目指す空手とは、あらゆる人間にとって意義のある「人間空手」でなければならないのだ」

その時、はっきりと心の奥底に像を結んだ空手のイメージとはこうだ。

強さを競う空手には、もうあらゆる点で限界がある。人間には先天的な才能や体力的、年齢的な個人差が大きい。ある程度まで努力しても、それがために空手をやめていく者が多いのが実状だ。

自分では力の限りやったつもりだが強くなれなかったとか、年をとってしまったからもう空手は無理だとか、理由はいろいろだが、いままでの強さを目指す空手には、それらの人たちを引き止める力がなかった。一旦自分とは無関係なものだと思ってしまえば、それはもうどうでもいいものだった。だが、私が目指す空手はそうではないはずだ。

人間の人生にとって意味のある空手、追い求めなければならないのはそれである。それを学んだせいで精神的な自信が生まれるような、仕事面でもプラスになり、家庭、夫婦間も円満になるとか、人に対する接し方、感じ方にも余裕が出て、今まですぐカッカして喧嘩ばかりしていたのが、一旦ことあっても冷静でいられるようになるといった、そんな有意義な空手の道を築くことができれば、きっと誰でもが「こんな空手ならば、一生続けていきたい」と考えるようになるだろう。

ある面では和気あいあいとともに喜びを分かち合い、その反面では厳しい切磋琢磨があり、困難に耐えることも学び得るといった充実した雰囲気。その中でしっかりと信頼によって結ばれた生徒と師範、先輩と後輩の絆。

例えば、生徒の誰かが病気する、怪我をするといったときにも、誰もがそれを自分のファミリーの出来事として心配し、互いに励ましあっていけるような、そんな精神的、人間的な関係をつくることが大切なのだ。

こう考えてきて、私は、私が築き上げるべき誠道空手がまさに「人間空手」そのものであることをはっきりと実感した。

・・・中略

宗教的な問題もあるが、外人は神前に向かって「礼」をすることに対して抵抗感を顕にする。また道場に入るときに「礼」をするのにも、最初は戸惑いを見せる。とにかく頭を下げることに拒否反応を示すのだ。そうした時に、私は決まって「尊敬」という言葉を持ち出して説明する。

「もし君たちが、先生だから頭を下げる、先輩だから頭を下げる、しかたないから頭を下げる、と考えているのならやらない方がいい。そうではなくて、頭を下げるというのは、己が今日五体満足で稽古ができること、無事道場にくることができていつものように稽古ができること、そういうことに対して感謝しているからこそなのだ。

だから、今の自分の環境、つまり健康な身体や身の回りのもの、そういったすべてのものに、ありがたいと思って頭を下げればいいのである。

“押忍”という挨拶もまったく同じだ。ただ儀礼的に押忍というのなら言う必要はない。大きな声を出すこともない。ただ大きな声で良いたい人はそうすればいいし、小さな声で言いたいのならそれでも構わない。大切なのは、他人を尊敬する気持ち、他人に感謝するという素直な気持ちをしっかりと自分の心の中に持つことなのである」

古参の門下生などは、こうした私の話を耳にタコができるくらい聞いているであろう。それでいい、と私は思っている。繰り返すことが大切なのである。そうすることによって、誠道塾は開設当初からの塾風を守り続けてこれたのだから。

結局、人間の欲というのは常に戒めていない限り、無限に広がっていくばかりなのだ。だからこそ、今時分が生きていること、逆にいえば周囲の人々の力や環境によって「生かされている」ことに対して、感謝する気持ちを私は学ばせたいのである。

そうやって、努力の結果かあるいは周囲のお陰かたまたま環境がよくなれば、そのときにまたその状況をありがたいと思えばいいのだ。それをどうしてこんな風にしかならないのか、何であいつばかりが良い目をみるのだ、などと思ってしまうから、結局は自分からつまらない人生を選んでいくような格好になってしまうのだ。

空手に限らず、どのようなことを学ぶにしても、最終的には自分を少しでも良いほうに持っていこうとすることが大切なのである。

僕自身がアメリカに渡って以来、できることなら人間的に貧しくならない環境に身を置いていたい、人間的に豊かになれるような環境下で自分を鍛え続けたい、と願っていた際に出会った中村氏の「礼」に対する考え方、「尊敬」に対する考え方は、探していたものを見つけたような感覚、このような大きな考え方の人間が世の中にいるんだなぁ、という驚きでもあったし、そうした出会いに感謝したりもした。

自分の周りで起きていることすべてに感謝することができれば今よく耳にする偶然力( Serendipity )は絶対に高まると僕は信じている。日常生活の中で起きる数々の偶然の喜びの瞬間に出会う機会が増えることに繋がってくるし、そのような機会に出会えば自然、その偶然性に感謝するように否が応でもなる。

心をポジティブに、ピュアに、オープンに保っていくには感謝の気持ちを常に持ち続けること。礼や尊敬はその際の行動であり、精神の拠りどころであるはずではないだろうか!

空手道

空手は、格闘術でも、空手術でもなく、空手道である。何故「・・・術」ではなくて「道」なのか。空手の指導者たちに考えていただきたいのはこの点である。

剣術が剣道になったのは、ただ字を変えたからというわけではない。柔術が柔道になったのも、単に名前を変えたということではない。それが何故かはもう説明することもないだろう。

道を究めるということは、すなわち己の人間性を高め、少しでも豊かな心を持つことに他ならないのである。であれば、空手道とは、すべての人たちがよりよく生きるために役立つものでなければならないのだ。空手を格闘術にするか、空手術にするか、空手道にするか、その選択はいま第一線に立つ指導者たちの手に握られている。

私は現在の日本の空手の指導者たちに向かって、声を大にして叫びたい気持ちだ。強い人間をよりいっそう強くするだけの空手はもうやめよう、と。いま急いで築き上げなければいけないのは、そうではなく、この世の中にいるすべての人にとって意味のある空手なのである。

たとえば、世の中には程度の差はあれ身体に障害も持つ人、知恵の遅れている人たちがいる。また子供たちの間にはいじめられる子供、いじめる子供がいて、社会問題にもなっている。空手は、そのような人々にとっても本当に意味のあるものでなければならない。

歩くのに少し不自由する、喋ったり、人の話を聞いたりするのにちょっと不自由する、といった人たちに、しっかりと人生の意義を見出してもらえるような空手、いじめられる子供もいじめる子供もなくすことのできる空手、そのような、本当に弱い人たちを、心身ともに強くしてあげられる空手こそ、いま緊急に築き上げられなければならないのだ。いかに空手道を通して社会に貢献するか、それを考えるのが指導者の義務なのである。

そういう風にやってこそ、初めて空手という武道の本質が一般の人々にも理解されるようになってくるだろう。一部の人にだけでなく、世の中のより幅広い層に知ってもらい、理解してもらうことが空手の普及に繋がるのだ。

そこで初めて、日本の武道である空手の意義が明らかになってくる。

誠道塾へ通へばすぐに気がつくことだが、身体に障害も持つ人、知恵の遅れている人たちが普通に他の人たちと混じって稽古に励んでいる。特別に区別、差別することなく普通に同じ環境に溶け込んでいる。誠道塾では当たり前の光景である。

そして驚くのが道場の生徒の女性率の高さ、お歳を召した方の多さ、知的職業についている人たちの参加度の高さである。もちろん若くてエネルギーに満ち溢れている男子もたくさん存在している。皆同じ環境下で稽古しているんだけど、道場の質にも雰囲気にも違和感は全くない。

多くの日本に住んでいる武道家、格闘家、現役、指導者に関わらず機会があればニューヨークにある、誠道塾本部に足を運んでみるといい。そしてじっくりと中村氏の指導、お話し、考え方などに触れ、自分の心を見つめる機会を持つことはきっと素晴らしい経験になるはずである。道場へは見学したいと申し込めば、外から見学できるし、同じ空手家ならば宗派は違っても中村氏は受け入れ、同じように他の生徒と一緒になって稽古させていた。

黒帯が常に10人以上、時には30人とか40人集まる道場で一緒に稽古をしてみるがいい。その黒帯たちの気合の輪に包まれることを体験してみるがいい。荒ぶる、心が荒ぶるのをきっと感じることでことだろう。贅沢な経験である!


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