朝青龍引退 – 問い続けた品格とは?


朝青龍引退 – 問い続けた品格とは?

先週、突然引退表明をした朝青龍のどたばたから早一週間が過ぎようとしている。日本人の特徴の一つのごとく朝青龍引退も日本人の中ではすでに遠い過去のことになりつつあるかのように忘れられていく。次回3月の春場所に朝青龍がいないことを改めて認識してその空いてしまった空白に各々の思いを寄せるのであろうか?

日本中の相撲ファンが驚いたように僕も正直驚いた、と同時に朝青龍もはめられたか、という同情の想いが強く自分の中に湧いてきたことも確か。多くの方と同じように、横綱としての品格を欠いた罰として当然という思いもあったが、どこかで朝青龍のことを応援していた僕としてはとても残念な気持ちになった。

多くの人が指摘しているように体力の限界とか、怪我でどうしようもないとかいうのではなく、引退を自分で宣言しなければ解雇する、というような裏取引にも似た形成を迫り、結果朝青龍に引導を渡してしまう。はめられたな、日本人村八分気質に!

ネットでも朝青龍引退劇に関する記事がちらほらあがっていたのでそれらもチェック。あぁ、なるほどなぁ、というものにも出会ったりしてそろそろ自分の中でもある程度のまとまりができていたのでここで排出しておこか、という意味もこめて自分なりに気になったことを書き記していこうと思う。

誰々が悪いと書くとアラ探し的内容になってしまうので気をつけて書くつもりでいるが・・・

2008年に大麻所持で大麻取締法違反の疑いで逮捕され、即、解雇になったロシア人若ノ鵬や、大麻所持ではなく大麻の吸引の疑いという大麻取締法では不法行為にはあたらない場合にもロシア人露鵬と白露山は解雇になり、相撲界から放り出されたことがあった。

後に若ノ鵬は所持していた大麻はごく微量で、大麻取締法違反の起訴の規準となる所持量に達しておらず、初犯でもあり、すでに社会的制裁を受けているということで起訴猶予処分となった。彼らは不当な解雇であると日本相撲協会に訴訟を起こした。逮捕されるということは単に一時的に拘束されるという状況にすぎず、イコール犯罪者ではない。

裁判で有罪が確定するまでは「推定無罪」というのが基本だ。たしかに、この事件でも解雇にあたる法的根拠がどこにあるのか、日本相撲協会に対して疑問をもつ人はいた。(『NEW YORK, 喧噪と静寂』第12回「朝青龍の引退 日本の外から見えること~リスク管理:「品格」より規則の欠如が問題」)

悪ガキではあっても、悪人ではなかった朝青龍。喜びや悲しみ、怒りを素直に表現する愛すべき男でした。道の真ん中で風を切っていたのではなく、モンゴルからやってきた頃そのままに、道なき大草原を駆け回っていたのだと思うのです。それは旭山動物園で見るシロクマが魅力的であるように、人間として魅力的な姿だったと思うのです。

何度怒られてもダメを押す、何度怒られてもガッツポーズをする。僕はそんな朝青龍を見守るのが好きでした。朝青龍の激しい相撲が好きでした。初場所の千秋楽で見た、珍しく気の抜けた相撲。今にして思えば、もうあのときには土俵どころではなかったのかもしれません。素直に顔に出るタイプですから…。

引退会見で涙をこぼすあたりも、何とも朝青龍らしい最後。言いたいこともあるでしょう。無念もあるでしょう。しかし、最後は横綱としての自覚が、愛する相撲を守りたいという想いが、この決断に向かわせたのだと思います。記録を守るためとか退職金が欲しいからとか、そんなケチな根性の男なら、これほど愛されも、これほど憎まれもしなかったでしょう。

引退の記者会見、高砂親方が朝青龍がどんな弟子だったかと問われて「こんな弟子です」と答えたのが印象的でした。無為自然、あるがまま、見たまんまの男でした。やはりこういう大きな男には小さな土俵ではなく大草原が似合います。これからはモンゴルの大地の上で風や木々や動物たちと存分に相撲をとってもらいましょう。(朝青龍涙の引退!自由奔放な大横綱がモンゴル大草原に帰るの巻。)

元横綱朝青龍

ガッツポーズはするな、とか勝った後のダメだし(土俵を出てからの突きや膝蹴り?)とか指摘されてきたけれど僕は朝青龍のことを応援していたことは確か。これはやはり自分も日本の外で生活していることの大変さを朝青龍はじめ他の多くの国外からの力士に同情というか共感してしまうことに起因していると思う。

他国、この場合日本だが自分のアイデンティティーとは違う異国で頑張ったことのすごさにどうしても注意がいってしまう。異国の地で育った文化と違う文化へ適応することの大変さは現在海外で住んでいる日本人の方ならば理解できる部分ではなかろうか?

そこで文化など形式に適応することのさらに上、日本の国技と呼ばれる相撲という土壌で天下を取る、横綱に昇進することのすごさはやはり並大抵の努力では達成でき得ないものだと思ってしまう。この点をどうしても贔屓目で見てしまうんだろうな、自分の場合は!

一人横綱時代到来

相撲界への果たした貢献は認めてあげるべきだし日本人も朝青龍の存在に甘えていた、と語ってしまえば言い過ぎかもしれないが、とりあえず当分の間は朝青龍に頑張ってもらって、次期横綱を狙える力士が現れるのを待つか、と安堵の気持ちがなかったともいえないのではないだろうか?

そこでじわっ、じわっと現れだした数々の朝青龍の姿勢に周りが慌て始めた。「問い続けた品格」といわれ始めたのもこのころからであろう。歴史を語るとき“もし”は禁物だが、この時点で周りの誰かが、いや朝青龍自身でもいい、自らの行為によって足をすくわれるような出来事が起こっていれば、朝青龍も立ち止まってもう一度初心に帰るきっかけを得ていたかもしれない。

だが実際に起こったことといえば異例の速さで横綱まで昇進してしまった朝青龍であり、まさに挫折というものを味わう経験なしに時に周りからちやほやされ、気がついたらやんちゃ坊主のまま成長してしまった朝青龍が出来上がってしまっていた。品格とは何か? 後日テレビ見た特集「NHK 追跡!AtoZ」の中で朝青龍自身も相当悩んでいたようであることを知る。

鬼になるのは勝負が決まるまででいい

一つ残念だったのは対戦する相手に対して礼を欠いていた朝青龍の態度。よく朝青龍は次のように語っていた。「やっぱり横綱だからね、常に勝ちを望まれるし、勝たなくてはいけない。だから土俵の上では鬼になるのが当たり前」というようなニュアンスの内容。

この気迫があったからこそ誰にも負けない勢いで横綱まで昇格したのであろうし、土俵上でも向かうところ敵ないしの期間が一時続いた要因だと思う。しかし一つ履き違えているなぁと感じてしまったのが、鬼になるのは土俵上、勝負が続いている間まででいい、ということ。勝負が決まったあとはそれこそ横綱らしく対戦相手に対して潔く礼を示すべきだった。

残念だったのは朝青龍の負けた後の姿勢はほとんどの場合、相手に対してこの野郎といった自分を負かした相手に対しての憎しみ的な感情含めた態度、ほとんどといっていいほど朝青龍は首をちょこっとだけ下げるような形のお辞儀を示すだけでまだ相手を睨みつける見苦しい態度であった。

朝青龍は、スポーツ選手・力士としては類まれな身体能力と気力・集中力・闘争心を兼ね備え「超優秀」であった。しかし一方で、「横綱」とは単なる最強者ではなく「日本人の心の奥底にある美徳」を具現化し全力士の模範であることが求められる存在、であるということを最後まで完全には理解できなかったのではないかと感じざるを得ない。

朝青龍は土俵の上で勝負が終わった後に相手にきちっと礼をすることが結局最後までできなかった。いつもしているのかしていないのかが分からないようなちょこっと首を傾けるだけの動作であった。

今回の件を見て、外国から来た新弟子には相撲の技術だけではなく日本の文化や美徳を教えることも、やっているのだろうが、今以上にかなりの重きを置いて叩き込む必要があると、強く感じる。

そういう意味では、そういうことを深く理解できないまま番付ばかりが上がってしまった朝青龍、身近に暴走を諌める人がいなかった朝青龍はある意味かわいそうな存在(被害者)であったとも言える。( Feb.05.DC12:朝青龍引退。 )

日本相撲協会

NHK 追跡!AtoZ で朝青龍引退に纏わる特集を組んでいた際、北の富士氏も出演していたのだが、もしかしたら日本人自身、横綱の品格というものに対して曖昧なものを抱いているのではないか、という感じがした。これではダメである。

日本人同士ならまだしも、日本の文化、社会の中で育ってこなかった外国人力士に対して、日本人の呼吸のような“あ、うん”を求めてもお互いが苛つくだけではないだろうか?

横綱の品格とは、うーん、お前も日本人だったらなんとなくわかるだろう、そういうものだ、的な曖昧な雰囲気の中で誰かお互いが納得、形にしないまま、その内誰かが説明するであろう、と自分とは関係がない、という態度で臨んでいたとしたらそれは相撲協会始め、相撲に携わる関係者すべての責任だと思う。

日本の国技というならば、横綱の品格とはどういうものかきちんと説明する。日本人の力士が育ってこない、外国人力士に頼るしか選択肢はない、と方向性を探った時点でこのようなことは言葉と態度で力士の中でならば先輩方が築いていくべきではなかったのか?

このようなそれこそ品が無い結末を用意しておいて、いまさら、というような事態を招いてしまった相撲協会にもそれなりの責任はあると思う。それにもしかしたら朝青龍に頼った部分もあったのでは? 先に述べた一人横綱の時期を任せてしまった時間と、悪役でもいいから相撲が注目されることへの安堵感。自分じゃないからいいや、みたいなね・・・

情けない親方たち

朝青龍に対して大きなことを言えない親方も多かったのが原因ではないだろうか? 過去、相撲界を見渡してみれば自分も犯罪、または犯罪まがいの事件を犯した親方衆がなんと多いことか! これでは朝青龍に対してえらそうなこと、ましてや品格がどうのこうのとは言えないなぁ・・・

例えば会社内で毎朝遅刻していない上司なら部下に対して遅刻するなといえるけど、自分が遅刻常習犯で誰もが知っている中、部下に対してお前も遅刻するな、とは言えない。後ろ指刺されるような行為を過去自分も犯した後ろめたさから朝青龍に対して、横綱というものはなぁ、と・・・まっ、普通なら言えないよね!

今回の引退劇に関して、私は何人かの知人に「どうして大鵬や柏戸や北の富士は拳銃密輸して書類送検されても引退はおろか出場停止にすらならなかったのか」と訊いてみました。そして、皆さんが一様に答えるのは「今までの積み重ねだからね」ということです。

私もまったくその通りだと思います。しかし、その「積み重ね」というのは、「真実の積み重ね」ではなく、「印象の積み重ね」なのです。そして、その印象というのは「腰骨がぽっきりと折れているはずなのにサッカーに興じていた」というまったく事実とかけ離れた印象なのです。

私は、この構造はいつか国を滅ぼすのではないかと危惧しています。日本は国民が主権者なのであり、主権者に正しい情報が届かない構造は、愚かな独裁者が国を支配する構造と何も変わりません。( 朝青龍引退に見るジャーナリズムの病理 )

日本人

舞の海氏がよく言っていたんだけど、朝青龍の場合は本当に好きか、嫌いかの二つにファンの態度は別れると。まっ一ファンだし、実際の力士とは距離もあるし、内面を知る機会が少ないこともわかるけど、どうも印象だけで判断してしまう危険性を日本人の多くは抱えているような感じがして気になった。

その印象というのも自分が受けた、自分が情報を直接受けた印象ならばいいんだけど、例えば何かの機会でその力士と直接お話しする機会があったとかね、そこから得られた印象とか。

そうではなくマスコミによって形成された、マスコミによって操作されたような印象を鵜呑みにしてしまうのはいかがなものかなぁ、と感じた。マスコミからの情報を一方的に受け入れていれば楽だし、周りの誰もほとんどの人が疑うことも無いから安心するであろうし、と。

こうなったらもう思考停止状態なんだけどその弊害すら認識している人がほんと存在するのか、というレベルの話しだから日本人、このままでいいのか? と外から見ていると思ってしまう。朝青龍も白鵬のように日本人のお嫁さんを貰っていたら違った扱いを受けたのだろうか?  場所が終わったらすぐにモンゴルへ帰国していなかったら違っていただろうか?

今回の引退劇に関してはモンゴル側での事件ではなくまた私自身が日本にいないという状況もあり、軽々しく口を挟むことはしません。ただ2007年のバッシングを振り返って感じた構造的な問題について、一言だけ書いておきたいと思います。その「構造的な問題」というのは以下のような流れです。

1真実よりも「読みたいもの」しか読まない国民
2「読みたいもの」に合わせた偏った報道
3偏った報道に基づく国民の誤解
4誤解に基づく圧力
5圧力に基づく不合理な処分
6その処分に基づく誤った国民の認識
(1にもどる)
( 朝青龍引退に見るジャーナリズムの病理 )

外見が違うことによる違和感

例えばサッカー日本代表に選ばれるために帰化した日本人の田中マルクス闘莉王と三都主アレサンドロ。多くの日本人はどちらの方がより日本人的だと感じるだろうか? 日本人のような外見、いわゆるアジア人の外見をした人物に親近感をより感じるのは理解できる。では日本語が上手な外見的要素が日本人とは異なる外国人帰化人に対してはどうだろうか? ここのところを日本人はもっと心を広く持たなければいけないのだと感じてしまう。

朝青龍が日本でバッシングに遭う現象は、ニューヨーク・ヤンキースでバッシングに遭っていた伊良部秀輝や井川慶と同じであることを多くの日本人は理解しているのだろうか? ふてくされたような印象を与える伊良部、無愛想の伊良部はバッシングされて当然と感じるだろうか? 思ったようにアメリカ社会、メジャーリーグに馴染めない、適応するのに時間がかかっている井川に対してはどのような感情を抱くのか?

伊良部や井川が朝青龍ならば松井秀喜は白鵬といえば、理解してもらえるだろうか? 同胞が苦しんでいるのを見たり聞いたりした場合、同じ日本人ならば応援したくなるであろう。ニューヨーク・メッツの試合を見に行って、9人中1人松井稼頭央が出てきたときにだけ地元メッツファンはブーイングを浴びせるとき、やるせない気持ちになった。( 揺れた大相撲界から日本社会の問題が見えた一年、伊良部秀輝と朝青龍の悲劇 )、( 甦った松井稼頭央、メジャーリーグに適応した後 )

多くのモンゴル人はきっと日本人が朝青龍に対して行った行為に、悔しい気持ちとやるせない感情を抱えていることは想像に難しくない!

日本の中の外国

これからの日本、仮に外国人を多数受け入れるようになった場合、必ず日本のどこかで東南アジア街とか中国村とか、韓国人町とかできるようになる。そのほかの国でも充分その可能性はあるだろう。

外国人参政権とかいうけれどそのときに日本人は、日本社会は、日本政府は差別無く、それらの人々に対して日本人が受けるであろう当たり前の恩恵と同じような態度でことに当たれるだろうか?

変な日本語を話すからあいつは日本人ではない、外見が日本人と違うから日本人ではない、親が日本人じゃないから日本人ではない、日本人が住んでいない地域(日本国内)に住んでいるからあいつは日本人ではない!

そうではなく、あのひとたちはこのようなハンディーを持っているけどりっぱな自分たちと同じ日本人だからといってサポートできるだろうか? 区別と差別は違う。英語でいう区別はDistinguishで差別はDiscriminationとその扱いは全く違うものとなる。

白鵬、日馬富士、把瑠都に琴欧洲。彼らを日本人ではないからと区別して同じ日本人力士として期待されている姿勢をとらせるために、ハンディーをおっているであろうからサポートしてあげる。横綱の品格とはね、こうこうこういうものなんだよ、って!

あいつら白人じゃん、モンゴル人じゃん、日本人の心、わかるわけ無いよ、といって差別するようであれば、それは日本人の努力が足りないのだと思う。話をしなくてもその内気づくだろう、という希望的観測も日本人側の甘えとしか言いようが無いと思ってしまう。

これだけ日本人同士でも世代間での距離感が開いてきた世の中、今後同じ日本人だからわかるだろうという期待は存在しなくなるのではないだろうか? 品格、品格というのならば、まずその品格を日本人自身が示せるか? 相撲の世界だけではなく、今後社会のあらゆる場面で外国人に日本人の心を理解してもらうにはどうしたらいいのだろうか、という問題に必ずぶち当たるようになる。

そのときに大事なのが難しいけど、相手の立場にたって物事を考えられるか? やっぱりこれしかないと思う。日本以外での生活経験がないひとたちのジレンマは今後益々大きくなるだろうな、と朝青龍引退騒動を見ていて無意識に近い将来の日本の姿を危惧してしまった。


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